街中の平地に鎮座する。
もとは現鎮座地の東約500m附近の対馬江村にあつたとする。そののち洪水で流されて、現在の地に移つたという。対馬には「神置」「神の木」「神絹」などの地名がのこっている。 かって淀川は現在よりやや南を流れ、その中洲のような所が津島と呼ばれて往昔の船着場であったたことから、津島江といわれ、神社と同名を憚って同音の対馬江に変えたといわれている。 津島朝臣、津島直の一族が祖神を奉斎して創祀したと思われる。 神宮寺であつた隣接する金龍寺(禅宗)に、津島部神社の御霊代として祭られていた懸仏がある。直経一尺五寸二分の円形木版に銅の押出仏が貼られている。中央は弁財天と思われる女神像で、手に団扇と念珠を持つている。裏面に「奉納大宮御神前、寛徳2年(1045)乙酉2月吉日、三井村中」と墨書されている。 |
由緒 当神社は今より凡そ1200年も前の遠い昔からの当地の氏神で、延喜式内の古社で旧茨田郡一の宮の称あり、かの六国史の一つである文徳実録に「嘉祥3年(850年)12月河内国津嶋女神従五位上」と見ゆるは当神社のことでありまして、寛永10年(1633年)淀の城主永井信濃守尚政この地を領するに及び菅公を合祀し神領五百石(17852平方米)を寄進して大宮天満宮と称し、あつく崇敬せられました。 氏地は現在の守口市と寝屋川市の両市に亘り境内地は今より拡大にして古松老楠生繁り荘厳な鎮守の森で、絵馬殿、宝物庫、地車庫、観音堂等あり、本殿、幣殿、拝殿総桧皮葺にして壮麗を極めましたが元和元年(1615年)5月大阪夏の陣に兵火のため惜しくも炎上し、天保7年(1836年)壮大な規模をもって社殿復興いたしました。現今の社殿は明治15年(1882年)造営せしもので、同年10月盛大な正遷宮を行われました。その後、総瓦屋根であった社殿を昭和59年10月総銅板葺に葺替えられ現在に至る。 境内に、皇太神宮、白龍稲荷社、若宮天満宮、厳島神社、山王神社等を祀る。また神宮寺として、金竜寺、豊蔵寺、大竜寺ありしも今は金竜寺のみ存す。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
式内津島部神社 この神社は、延喜5年(905)から延長5年(927)にかけ作成された延喜式神名帳に記載されている茨田郡五座の一つとして由緒ある神社てあります。 祭神は、津島女大神・素盞鳴尊・菅原道真公で、もと大窪庄の金田村・北村・梶村・東村・藤田村の五か村と、現在寝屋川市に属する黒原村・対馬江村の計七か村の氏神であります。 元和元年(1615)5月大坂夏の陣の兵火で社殿が炎上したと伝えられ、その後幾多の再興が行われてきましたが、元禄年間(1688-704)に再建された社殿は、現在の社殿と同規摸で、当地方においては最大規模を有しており、当時の隆成ががうかがえます。 守口市教育委員会 社頭掲示板 |
津島部神社 神社は、今よりおよそ千二百年前もの遠い昔から当地の氏神様で、延喜式内の古社です。旧茨田郡一の宮の称あり。かの六国史のひとつである文徳実録に「嘉祥3年(850年)12月河内国津嶋女神従五位」と見ゆるは当神社のことでありまして、寛永10年(1633年)淀の城主永井信濃守尚政がこの地を領するに及び菅公を合祀し神領五百石(17852平方米)を寄進して大宮八幡宮と称し、あつく崇敬せられました。 氏地は現在の守口市と寝屋川市の両市に亘 り、境内地は今より拡大にして古松老楠生繁り、壮厳な鎮守の森で、絵馬殿、宝物庫、地車庫、観音堂等あり、本殿、幣殿、拝殿総桧皮葺にして壮麗を極めましたが、元和元年(1615年)5月、大阪夏の陣の兵火のため惜しくも炎上し、天保7年(1836年)壮大な規模をもって社殿を復興しました。 現今の社殿は、明治15年(1882年)に造営せられ、同年10月盛大な正遷宮がおこなわれました。その後、総瓦屋根であった社殿を、昭和59年10月総銅板葺に葺替え現在に至ります。 境内に皇太神宮、白龍稲荷社、若宮天満宮、厳島神社、山王神社などを祀る。また神宮寺として金竜寺、豊蔵寺、大竜寺ありしも今は金竜寺のみ存す。 御神徳は、御祭神津嶋女神は、古来より方除の神様として庶民の崇敬が厚く、また女性の神様であらせられ、安産、育児の守り神として、素盞鳴尊は、諸々の罪穢れを祓い清め、生々発展向上のことを守り給う神として、また菅公は、学問の神様として、何れも貴い御神徳をもって私たちに明るい希望と光を与えていただきます。 大阪府神社庁 |
郷社 津島部神社 祭神 津島売神 菅原道眞 創立年月緑由等詳ならねど、姓氏録(摂津の国神別)に、「津島朝臣大中臣朝臣同祖、津速魂命三世孫天児屋根命之後也」と見え、恐くは同姓の氏神として斎き奉りたるにてもあるべきか、神祇志料には天児屋根命を祭れるならむといへり、菅原道真は後世の所祭なるべきも其年暦所由不明なり、文徳実録嘉祥3年12月癸酉從五位下を授けられ醍醐天皇延喜の制式内の小社に列り、祈年祭、鍬、靭各一口を加へらる、河内国茨田郡小社五座の一なり(延喜式)、以て由緒ある古社たるを知るべし、その後の沿革明かならざれども、対馬江村の産土神(参取河内志河内名所図会)たり、明治6年郷社に列す、境内660余坪(官有地第一種〕社殿は本殿、廊下、拝殿等を備ふ。 明治神社誌料 |
津島部神社 鍬靭 津島部は都志麻倍と訓べし○祭神詳ならず〇金田村に在す、対馬江村共に祭祀に預る、(河内志、同名所図会)、○姓氏録、(摂津国神別)津島朝臣、大中臣朝臣同祖、津速魂命三世孫天児屋根命之後也、 神位 文徳実録、嘉祥3年11月癸酉、進河内國堤津島女神從五位下、 連胤、云、此神位文字の過差あるを以て、祭事記、比保古共に別社として爰に加へず、今考証、河内志等に拠て収む、 神社覈録 |