明治41年、式内・堤根神社の後裔であるとして「堤根神社」に改称した。式内社であることを示す資料はなく、式内社を名乗ることで、当時盛んに行われていた神社合祀を免れようとしたものとみられるが、同年8月に郷社・三島神社(現 門真市大字三ツ島1374)に合祀された。昭和21年に三島神社から独立して旧地に復興された。 境内本殿横に環境省巨樹巨木DBに載る、幹周/6.10m、樹高/19mの大楠木がある。 |
由緒 当、堤根神社の創立の年代を明らかにしないが、文禄3年(西暦1594年)の検地帳に稗島・桑才二村の氏神として山王宮と呼ばれていたことが記されている。 祭神は素盞嗚神・大己貴神の二座である。「山王」とは大己貴神を祭る神社が、「山王」と呼ばれる例に従ったものであろう。 その後、年月を経て享保10年(西暦1725年)の検地帳では「八剣大明神」と記録されている。これは天叢雲剣の神格速蛇建雄命を祭る神社が八剣神社と称しているので、天叢雲剣は素盞嗚命が八岐大蛇を退治の際出現したものであるから祭神素盞嗚神につながり素盞嗚神を重視する時代に、さきの「山王」が大己貴神を重視する時代のものであったように八剣大明神と呼ばれたものと思われる。 元文3年(西暦1738年)の古文書では、祭神に新たに天照大神が加わって三座になっている。 それが明治12年の北河内郡神社財産登録では「両村神社」と呼ばれて、祭神は天照大神一座となっている。稗島・桑才二村の氏神社であるから、こう呼ばれたものと思われるが何故、祭神が一座になったか分からない。 明治41年、「堤根神社」と改称し村社としての指定を受けたが当時、神社の合祀が広く各地で行われていた例に従って、郷社、三島神社に同年八月合祀された。 それ以後、当地には氏神社をもたなかったのであるが太平洋戦争終結後、稗島・桑才の住民は氏神社の復帰を希望し、遂にその熱意は昭和21年10月16日をもって成就し、ここに旧来の姿をもって堤根神社は再び鎮座せられることとなり昭和28年2月10日には、宗教法人としての登録を完了するに至ったのである。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
稗島((ひえじま)のくす 古川沿いの長谷川氏邸内にあるこの大楠は、約高さ10m、目通(目の高さ)にて幹が3つに分かれ、幹まわり7mあり、三島神社の大楠に次ぐもので、民家の内にある巨樹としては珍しく、昭和40年1月25日府古文化記念物保存顕彰規定により、天然記念物として指定を受けた。 この楠のある三庄橋付近は、明治末ごろまでは、古川筋の乗船場であり、大阪へ船で行く人たちも多く休憩所や船宿までもあった。しかし京阪電鉄開通後は、しだいにさびれてしまった。 社頭掲示板 |
堤根神社 当、堤根神社の創立の年代を明らかにしないが、文禄3年(1594年)の検地帳に稗島、桑才二村の氏神として山王宮と呼ばれていたことが記されている。 祭神は素盞鳴神、大己貴神の二座である。「山王」と呼ばれる例に従ったものであろう。その後、年月を経て享保10年(1725年)の検地帳では「八剣大明神」と記録されている。これは天叢雲剣の神格、速蛇建雄命を祭る神社が八剣神社と称しているので、天叢雲剣は素盞鳴命が八岐大蛇を退治の出現したものであるから祭神、素盞鳴神につながり素盞鳴神を重視する時代に、さきの「山王」が大己貴神を重視する時代のものであったように八剣大明神と呼ばれたものと思われる。 元文3年(1738年)の古文書では、祭神に新たに天照大神が加わって三座になっている。 それが、明治12年の北河内郡神社財産登録では「両村神社」と呼ばれて、祭神は天照大神一座となっている。?島、桑才二村の神社であるから、こう呼ばれたものとおもわれるが何故、祭神は天照大神一座となったかわからない。おそらく、現御祭神の天照皇大神、素盞鳴大神、大己貴大神の代表神を誇張的に書き残したのであろう。 明治41年、「堤根神社」と改称し村社として指定を受けたが当時、神社の合祀が広く各地で行われていた例に従って郷社、三島神社に同年8月合祀された。 太平洋戦争終結後、稗島、桑才の住民は氏神社の復帰を希望し、遂にその熱意は昭和21年10月16日を持って成就し、ここに旧来の姿をもって堤根神社は再び鎮座せらることとなり、昭和28年2月10日には、宗教法人として登録を完了するに至ったのである。 昭和61年10月本殿覆殿が改新築され、現在に至る。 大阪神社庁 |