堤根神社
つつみねじんじゃ 所在地ボタン 社名ボタン















   【延喜式神名帳】堤根神社 河内国 茨田郡鎮座

   【現社名】堤根神社
   【住所】大阪府門真市宮野町8-34
       北緯34度44分41秒,東経135度36分15秒
   【祭神】彦八井耳命 菅原道真
   【例祭】10月21・22日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】鎮座の年月日は不詳
       嘉祥3年(850)12月従五位下
       中世の沿革は詳らかでない
       明治5年(1872)村社
       明治18年の淀川大水害により、すべて流失
       同40年8月神撰幣帛供進神社
       昭和9年9月21日第一室戸台風で社殿等大被害をうけた
       昭和48年3月29日大阪府史跡「伝茨田堤」指定

   【関係氏族】男野氏
   【鎮座地】移転の記録はない
       堤の創立とともにこの地にあったか

   【祭祀対象】祖神
   【祭祀】江戸時代は「天満宮」と称していた
   【公式HP】 堤根神社
   【社殿】本殿流造桧皮葺
       拝殿・社務所・手水舎

   【境内社】若宮・八幡宮・九頭神社・稻荷神社

淀川の支流古川の南岸に鎮座する。鎭座地は、市街地の中であるが淀川と支流の古川の定まらぬ流路を安定させた茨田堤際で、古川の左岸に沿つて延々とつらなる堤のすぐ傍に社が立つていた。
仁徳紀11年の條の「茨田堤」築造に関する説話から、その堤を守護する神として「堤根」と呼ばれたと思われる。 茨田宿禰一族との関連が深いと思われ、その祖神を祀つた。堤根神社の祭神である彦八井耳命は、今に至るまで変らなかつたと云われている。
菅原道真については、徳川初期にこの地の領主であつた永井信濃守尚政(淀城主)の崇敬した菅公を祀らせたことによる後祀の祭神である。 社殿のすぐ東北に数本の樹齢500年を越す大樟が、2〜3mの土堤の上に立つている。これが往昔の茨田堤で、昭和の初め頃はこの土堤が神社の西側を南方の方にずつと残つていたと言われている。



堤根神社

当社の創建は今から約1600年前の古墳時代にまで遡ります。
当地に流れていた北の川(淀川)がよく氾濫を起こすことから、日本で最初の堤防茨田堤(まんだのつつみ)が築かれました。この茨田堤を築いたのが、茨田氏と呼ばれる一族で、堤防を築いた後に、その鎮守として祖先である彦八井耳命を祀ったことが当社のはじまりと言われます。
平安時代中期に編纂された『延喜式神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)』には、当社は河内国茨田郡五座の第一位に列せられており、門真市最古の神社です。
江戸時代の寛永年間(1624〜45)には、領主だった永井尚政公が崇敬していた菅原道真公を合祀しました。現在では、災い除け、運気浮き上がりの宮として、地域住民をはじめ多くの方から信仰を集めています。

公式HP



堤根神社

河内の国は上代河内湾から河内湖へと地形が変化し、そこへ北の河(淀川)が注いでおり、その分流のひとつである現在の古川は流れの定まらぬ大変な暴れ川でありました。
5世紀中頃、時の仁徳天皇より、当時の最先端の渡来者の土木技術を活用し、北の河の洪水から集落を守るため日本最古の堤防『茨田の堤』が築堤されました。
築堤の中心的な役割を担った茨田氏の茨田連杉子が祖先に祈り、ヒサゴを二つ川に投げ入れ難工事を克服したという故事が日本書紀に記されているように、大国家事業として行われました。
茨田堤の完成によって河内低湿地帯にも農耕文化が発達し国家の経済的基盤が確立され、国家発展へとつながりました。現在の寝屋川市大間より大阪市内にかけて築かれた堤も今は当地のみにその姿を残しています。
その茨田堤の中央に、茨田氏の祖である『彦八井耳命(神武天皇の第一皇子)』を奉祀したのが神社の起源であるといわれています。
平安時代中期に編纂された『延喜式神名帳』の茨田郡(北河内の一部)五座の第一座に列せられる門真市唯一の延喜式内社です。鳥居の前には河内と大和を結ぶ『行基道』が通じており、古来から祈願成就の神として篤い信仰を集めています。

由緒書



延喜式内社堤根神社

御祭神 彦八井耳命 菅原道真公
約1600年前、河内湖周辺を水害から守るため、仁徳天皇の命により茨田宿根が旧淀川(古川)に日本最古の堤防、茨田堤を築く。
この堤を守るため、茨田氏の先祖彦八井耳命(神武天皇の皇子)を守護神として奉祀したのが神社の起源である。
平安時代の延喜式神名帳にも記され、鳥居前には河内と大和を結ぶ行基道が通じており、北河内随一の古社として厚い信仰を集めている。
また、江戸時代初期淀藩主、永井信濃守尚政瓊より菅原道真公を合祀させている。

社頭石碑



伝茨田堤

(昭和49年3月29日大阪府史跡指定)
茨田堤は、古墳時代中期に築かれた日本最古の堤のなごりであると伝えられています。
「日本書紀」仁徳紀11年10月条に北の河(淀川)の労(浸水)を防がんとして茨田堤を築く。」と記され、「古事記」にも「秦人を役てて、茨田堤を作りたまい。」と記されています。
これにより河内平野に農耕文化が急速に発違したことを伝えています。
渡来人の協力によって築かれた堤も、その後たびたびの淀川の洪水によって決壊しましたが、その郡度修築されました。
秀吉の文禄堤の築造をはじめ、淀川や大和川の治氷工事が進むにつれ、この茨田堤の役目は終わりました。茨田堤のおもかげを残しているのはわすかに門真市にのみになっています。
ここは、昭和58年5月2日、史跡に追加指定された揚所です。
門真市教育委員会

社頭掲示板




茨田堤碑

堤根神社の茨田堤遺跡
京阪大和田駅から東北300メートルの古川南岸に堤根神社(門真市宮野町)があります。現祭神は彦八井耳命・菅原道真。社殿の裏東北 100メートルにわたり土堤が残されており、大阪府指定の史跡になっています。この辺り一帯は旧淀川水系の河川によって形成された砂州地帯で、旧淀川は一度水量が増すと付近一帯を濁流で押し流す荒川でした。「日本書紀」や「古事記」に仁徳天皇11年、水害から地域を守る茨田堤築造の記事がありますが、堤の決壊・修復の記録は奈良時代(続日本紀)にもあり当時の苦難が偲ばれます。土堤の上に巨大な樟が茂っており、これは茨田堤築造に関係の深かった茨田氏が、堤の安全を祈って先祖の彦八井耳命を祭ったものと伝えられています。

社頭掲示板



堤根神社

当神社は仁徳天皇の御代の茨田堤築堤を起源とすると伝わっています。茨田堤は日本最古の築堤といわれており、大国家事業として当時の最先端技術を持って行われ堤の完成により農耕文化の発展と経済的基盤が確立したとされ、現在日本の発展の礎になったといわれています。当神社の由緒として次のように伝わっています。
 仁徳天皇の御代北河内の治水を為し給うに当たり、先ず内外に線の茨田の堤を築かれる。而して堤は既に成りたるも、外堤には尚二ヶ所の断間あり塞ぎ叶わず。潰流内堤に切迫して工事いよいよ困難なり。
 天皇深く之を憂い給う時に神夢あり。曰く『河内皇別茨田連袗子(ろもこ)を召して事に当らせれば必ず成就せん』と之において天皇直ぐに袗子を探し給いに神夢のごとく河内にあり。よってこの事を命じ給う。袗子謹みて勅命を拝し第一にその成功を記念せんが為に内堤の辺りに祠を建て河神を祀り而して袗子は二個の瓠をとり塞ぎ難き水に臨み請いて曰く「禍神何ぞ祟る。吾幣となさんが為に今茲に来る。」吾を得んと欲せば先ずこの瓠を沈め而して浮かばしめざれば、即ち吾真神と知り水中に入らん。もし瓠を沈め得ざれば吾自ずから偽神と知る。「何ぞ徒に吾身を亡くさんやと」瓠投げ入れるや風忽ちおこるも、瓠水中に浮遊して沈まず流れ去る袗子意に介し神助を得て断間を修復し以って天皇の御慮を奉安。民の困苦を救う事を得たり。
 之全く袗子の才覚を持って大事を遂行し得たりとも、袗子我の微力に非ず。祖先の神助致すことなりと、河神を祀りし祠を改築し祖先たる産八井耳命を齋奉し氏神と尊崇せんにいたる。之即ち堤上に修祀する故を以て住古より堤根神社と尊称する所以なり。
 築堤後堤の安全を願い先人は護持発展に努め、江戸時代初期には永井信濃守尚政により菅原道真公を合祀し、また末社より若宮大神を合祀し現在に至っています。平安時代中期に編纂された延喜式神名帳には河内国茨田郡五座の第一位に列せられる門真市唯一の延喜式式内社で、鳥居前には河内と大和を結ぶ「行基道」が通じており古来より篤い信仰を集めています。近年では袗子の御遺徳により幸の守り神災難除け、大願成就の神様として信仰されています。

大阪神社庁



堤根神社

堤根は津々美禰と訓べし○祭神詳ならず○野口村に在す、(河内志、同名所図会)、例祭9月15日、
連胤按るに、日本紀、仁徳天皇11年10月、將防北河之■以築茨田堤、是時有両処之築、而乃壊之難塞、時天皇夢、有神誨之曰、武蔵人強頸、河内人茨田連杉手、二人以祭於河伯、必獲塞、則二人而得之、因以祷于河神、爰強頸泣悲之、没水而死、乃其堤成焉とある河伯を祭れるにはあらざるか、さるは後世のため、かならず堤の根に祭るべきものならずや、猶考ふべし、

神社覈録



河内国INDEXへ        TOPページへ



順悠社