清瀧川北岸、川岸段丘の上に鎮座する。 由緒不詳であるが、古代氏族の祖霊を祀つた古社であると思われ、清瀧地区に幡居した氏族の氏寺とした正法寺の旧趾があることから、あるいは新羅系と考へられる宇努(うの)氏の氏祖を祀ったものか。 別名「大蛇宮」と称しているが、近世に大和郡山の藩士が、当時神社の境内地や社前の道路は死人等不浄の通るのを忌諱した習慣であるのに、武士の権限を笠にきて、縁者の葬礼を通そうとした時、社殿の近くから大蛇が現れ出てその一行の通行を妨げたという。 |
国中神社 この神社は延喜式神明帳にのっている式内社で大へん古い神社ですが、創建年代の詳細は不明です。寛永年間に天神信仰から道真公を合祀し、大正5年11月に逢坂村の太上神社を合祀し現在に至っています。この神社の本殿は建築史上大変貴重な建物で、江戸時代中期に建造されたものです。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
国中神社 当神社の創建時の記録は現存しておりませんが醍醐天皇の御代延長5年(927年)に選定された延喜式神名帳には河内国讃良郡鎮座と記録されており古くから当地域の産土神として崇拝されてきました。 国中と云う名の如くこの地域の中心として所謂る四神相応の御鎮座地として最適な処であった事が今日でも明白であります。 東に生駒山・飯盛山の麓より流れくる清滝川に沿い西に大阪平野を見晴らかし、南に浪速の港より奈良の都へ通じる清滝街道に接し、北には清滝古墳群の丘陵地に囲まれた景勝地でもあり、御鎮座地が一度も移動した記述はありません。 この歴史ある悠久の神域は私達の祖先が幾多の苦難を乗り越え今に継承されて来た努力を考える時この「心のふるさと」鎮守の杜は絶やす事なく次世代に引継ぐ事がこの地域に住む私たちの責務でもあると思います。 尚当神社は明治以前にこの地域の人達は口伝ですが別名大蛇宮と称していたとの記述がありますが、何故大蛇宮なのか確定的な資料は見当りません。 又旧社殿の建築年代についても詳細は判明しませんが建築様式上から推定すると延宝(1673年)頃の建築であると推定されていますが、安永8年(1779年)江戸幕府による社殿改修許可を得て改修された記録に続き、天保3年(1833年)にも回収した記録がありますが、その後については昭和29年1月(1954年)本殿の屋根・神具庫の修理に続き昭和40年(1965年)拝殿の改築・本殿の修理の記録があります。 又社務所については平成6年3月(1994年)焼失につき平成7年5月(1995年)に再建され社殿・神具庫については近年に至り荒廃が進み維持管理が難しくなり氏子崇敬者の皆様のご協賛を得て平成12年12月(2000年)社殿・末社(小宮さん)・神具庫を大改修すると共に玉垣建立境内の整備も併せて実施し今に至っております。 由緒書 |
式内社国中神社 御祭神 天照大神 国常立命 猿田彦大神 菅原道真 由緒 この神社は延喜式の神名帳にのっている大変古いお宮様であります。創建年代は1200有余年前でありますが、現在の本殿は江戸中期に建造された流造社殿で貴重な建物であります。 特に当神社は五穀豊穣 学問芸道上達 家内安全 方除 合格祈願 安産祈願の御神徳があると云われています。 社頭掲示板 |
国中神社 住所 清滝中町4から48, 575-0061 国中神社略記 鎮座地 大阪府四條畷市清瀧中町4番48号 (旧地名)河内国讃良群甲可村大字中野字大上山923番地 御祭神 ◎国常立尊(くにとこたちのみこと) ◎天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)・猿田彦大神(さるたひこのおおかみ) 大正6年2月(1918年)逢阪村鎮座大上宮神社より鎮座 ◎菅原道真公(すがはらみちざねこう) 境内若宮社が寛永年間(1850年頃)に倒壊したことにより合祀 公式facebook |
国中神社 式内 国中神社 鎮座地 大阪府四条畷市清滝中町4番48号 (旧地名 河内国讃良郡甲可村大字中野字大上山923番地) 由緒・沿革 当神社の創建年代は不詳ですが、927年に選定された延喜式神明帳には河内国讃良郡鎮座と記載されており古くから当地域の産土神として崇拝されてきました。 国中と云う名の如くこの地域の中心として鎮座違創建時よりも一度も移動した記述は無く四神相応の御鎮座地として最適な処であった事が今日でも明白であります。 又、明治以前には、この地域の人達は口伝ですが別名大蛇宮と称していたとの記述もあります。 旧社殿は1673年頃の建築でありましたが、1779年に修理した記録に続き1833年にも修理した記録があり、その後1954年に大改修の記録があります。 尚、近年に至り御社殿の荒廃が激しく2000年12月大改修すると共に神具庫・末社を再建し社務所については1994年3月焼失の為、1995年5月に再建し現在に至っております。 御祭神 國常立尊、天照皇大神猿田彦大神 (大正6年2月(1918年)逢阪村鎮座大上宮神社より遷座) 菅原道真公 (境内若宮社が寛永年間(1850年頃)に倒壊したことにより合祀) 境内末社 三神社 御祭神 天照皇大神、八幡大神、春日大神 両宮社 御祭神 天照皇大神、豊受大神 吉備社 御祭神 吉備大神 (明治5年4月(1872年)清滝村より遷座) 祇園社 御祭神 素戔嗚尊 (明治5年4月(1872年)中野村より遷座) 稲荷社 御祭神 稲倉大神 (明治5年4月(1872年)中野村より遷座) 社頭掲示板 |
國中神社 当神社の創建時の記録は現存しておりませんが醍醐天皇の御代延長5年(927年)に選定された延喜式神明帳には河内国讃良郡鎮座と記載されており古くから当地域の産土神として崇拝されてきました。 国中と云う名の如くこの地域の中心として所謂る四神相応の御鎮座地として最適な処であった事が今日でも明白であります。 東に生駒山・飯盛山の麓より流れくる清滝川に沿い西に大阪平野を見晴らかし南に浪速の港より奈良の都へ通じる清滝街道に接し北には清滝古墳群の丘陵地に囲まれた景勝地でもあり創建時より御鎮座地が一度も移動した記述はありません。 尚当神社は明治以前にこの地域の人達は口伝ですが別名大蛇宮と称していたとの記述がありますが何故大蛇宮なのか確定的な資料は見当たりません。 又旧社殿の建築年代についても詳細は判明しませんが建築様式上から推定すると延宝(1673年)頃の建築であると推定されていますが安永8年(1779年)江戸幕府による社殿改修許可を得て改修された記録に続き天保3年(1833年)にも改修した記録がありますがその後については昭和29年1月(1954年)本殿の屋根・神具庫の修理に続き昭和40年(1965年)拝殿の改築・本殿の修理の記録があります。 又社務所については平成6年3月(1994年)焼失につき平成7年5月(1995年)に再建され社殿・神具庫については近年に至り荒廃が進み維持管理がむづかしくなり氏子崇敬者の皆様のご協賛を得て平成12年12月(2000年)社殿・末社(小宮さん)・神具庫を大改築すると共に玉垣建立境内の整備も併せて実施し今に至っております。 大阪神社庁 |
國中神社 国中は久爾奈可と訓べし○祭神詳ならず○中野村に在す、今天神と称す、(河内志、同名所図会)、 類社 山城園乙訓郡国中神社の條見合すべし 神社覈録 |