大杜御祖神社
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   【延喜式神名帳】高宮大杜祖神社 河内国 讃良郡鎮座

   【現社名】大杜御祖神社
   【住所】大阪府寝屋川市高宮317番地
          (旧地)大杜御祖神社旧地
       北緯34度45分21秒,東経135度38分18秒
   【祭神】天万魂命
   【例祭】10月10日 秋季例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】由緒不詳
       明治5年(1872)村社

   【関係氏族】高宮村主=阿知使主の後裔
   【鎮座地】現地は薬師寺式寺院高宮廃寺の西塔跡
        もとは現在地の西北になる一段高い畑地にあつた
        その後現在地に遷(時季不詳)

   【祭祀対象】氏祖
   【祭祀】江戸時代は「牛頭天王」と称していた
   【社殿】本殿瓦葺入母屋造
       拝殿・手水舎

   【境内社】

現地は薬師寺式寺院高宮廃寺の西塔跡である。高宮廃寺は奈良時代以前に創建され、平安時代に廃寺となった。
香里丘陵の南端の小丘陵に鎭座する。もとは現在地の西北100mの一段高い畑地にあつたが、のちに現在地に移つた。
祭神は式内社高宮神社祭神の父神である。親子の神が、200mほど距てて東西に祭られていることになる。
神社は高宮廃寺の鎮守として鎮座されたが、鎮座の年代は不明で、高宮廃寺建立と同時かあるいはそれ以前といわれている。廃寺が数度の火災で焼失した後も、神社だけは村の人々によって守り続けられてきた。



大杜御祖神社と高宮廃寺

ここ大杜御祖神社は「式内社」で、市内の三社あるうちの一社です。式内社とは、平安時代につくられた『延喜式神名帳』に記載されている神社をいいます。祭神は、ここより西北約300mにある高宮神社の父神である天萬魂命(あめのよろずたまのみこと)を祀り、『河内名所図絵』には「此地の生土神」と紹介されています。江戸時代には、五穀豊穣を願って牛頭天王も祀られていました。
また、この神社の境内には、東西に塔をもつ白鳳時代(七世紀後半)創建の古代寺院がありました。この寺院は高宮の地名をとって「高宮廃寺」と呼ばれていますが、現在の社殿のところにその西塔があったと推定されています。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




大杜御祖神社

式内社 大杜御祖神社 御造営縁起
惟うに当社の御祭神、天萬魂命は旧讃良郡の一帯の農耕開拓の始祖にて、その上、百済より農耕部族を率いて渡来されし高宮村主氏と伝えられる。
神功皇后の朝、百済より大和に移住されし渡来の大豪族阿知使臣(あちのおみ)の後裔、支族の由なり。
命はこの地に居を定め給いて御子、高宮神社の御祭神天則風命と共に原野を拓き、業を興し、産を殖し、以て地域の安定、文化の発展に寄せられ、古墳時代後期の国勢の興隆に地方豪族としての多大なる貢献されし由なり。
旧宮居は明治22年の御造営になるも、爾来、風雪百年を経て随所に毀損甚だしく、依って高宮、小路の村方、氏子総代と謀る。
時、恰も平成の御大典の慶事に方り、之が奉祝記念事業にて社標の建立、幣殿の御造営をはじめ宮居の修復を図る。
この度、工成り落慶古式床しく絢爛豪華、王朝絵巻宛らに御遷座を厳かに修め奉る。 平成4年5月吉日

社頭掲示板



国史蹟 高宮廃寺跡

高宮廃寺跡は、寝屋川市大字高宮に所在し生駒山系の西麓香里園丘陵の南端に位置しています。
飛鳥時代終わり頃(白鳳時代)に創建され、平安時代にいたる間、法灯が灯された北河内屈指の寺院跡です。廃寺跡には東塔の基壇・西塔の礎石塔が見られ、また金堂の基壇・講堂の基壇・中門・回廊塔が調査によって確認されています。
寺院伽藍の主要な建物跡からは、飛鳥時代おわり頃の蓮華文軒丸瓦などが出土しました。
寺域内に延喜式内社大社御祖神社があり、近くには延喜式内社高宮神社があります。この両延喜式内社は「先代旧事本紀」にみえる高宮神主がその祖神を祭ったものであり、当廃寺はその二社と氏寺氏神の関係にあったものと考えられます。
高宮廃寺は、古代北河内地方における初期寺院の展開と、氏寺経営のあり方をうかがう上で重要な遺跡です。
尚、当廃寺は昭和55年(1980)5月13日国の史蹟指定を受けました。
文化庁
大阪府教育委員会
寝屋川市教育委員会

社頭掲示板




高宮廃寺

高宮廃寺跡は、高宮にある古代寺院跡です。高宮の集落の東側は標高30m前後の小高い丘陵になっていて、遺跡はここに鎮座する式内社大杜御祖神社(しきないしゃおおもりみおやじんじゃ)の境内を中心に広がっています。1953年(昭和28年)に大阪府教育委員会によって礎石の残っている神社社殿東側の高まり部分の発掘調査が行われ、ここが塔跡であることが確認されました。
1979年(昭和54年)に市教育委員会によって、寺域の範囲や伽藍(がらん)の確認調査が行われ、金堂・講堂・回廊の位置が確認されました。伽藍配置は、神社社殿部分が未調査のため確定できませんが、この部分に塔跡があるとすれば、金堂の前面に東西2塔が並ぶ薬師寺式伽藍配置に復元されます。復元される回廊は東西が非対称で西側が大きく広がっています。
発掘調査で出土した瓦は、7世紀後半のもの(素弁八葉蓮華文軒丸瓦・複弁八葉蓮華文軒丸瓦)と8 世紀のもの(複弁四葉蓮華文軒丸瓦・唐草文軒平瓦)、13世紀から14世紀のもの(巴文軒丸瓦・唐草文軒平瓦)と大きく3時期のものに分類できます。このことから高宮廃寺は白鳳時代(7世紀後半)に創建され、奈良時代にかけて営まれたあと廃絶し、中世に一時期再建されたと考えられます。
中世の瓦は講堂跡付近でしか出土していないので、再建された寺院は大杜御祖神社の神宮寺になっていたと推察されています。
高宮廃寺跡の西側では発掘調査によって飛鳥時代(7世紀前半)の大型建物跡の柱穴が検出されていて(高宮遺跡)、同様の柱穴が高宮廃寺下層でも見つかっています。これらから、高宮廃寺の建立以前にこの丘陵上に豪族の屋敷地が広がっていたことが推測されます。

http://www2.opas.gr.jp/neyagawa/gyousei/23/236/237/2372.htm



高宮大杜祖神社

高宮は前に同じ、」大杜は於保毛里(諸本杜を社に作る、今兼永卿本に從ふ、」)祖は美於夜と訓べし、○祭神詳ならず○高営村ノ東に在す、(河内志、同名所図会)、
連胤按るに、当社は前にみゆる高宮神の御祖にして、大杜といふ所に在しにや、

神社覈録



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