権現川の南岸山裾の鎮座する。 旧社地は現在地より東へ500mの四條畷市の水源となつている室池の近く権現川の口にあつた。 文禄年間(1592−96)に権現川を狭んで北側の堂山に遷座し、さらに元禄13年(1700)に現在地に移座したと伝えられる。 生駒西麓の農耕池の水源の守護として鎮座していたものと思われる。 三好長慶が飯盛に居城した頃には飯盛城鎮護の神として崇敬も厚かったが、滅亡後現在地に遷宮されたと伝えられている。尚伴信友の神名帳考証には、姓氏録の「河内天孫津彦根命之後也」を引用して御机の机を津夫江ではないかと解している。 |
御机神社 御祭神 素盞鳴尊 当社は延喜式神名帳(905〜927)に載る古社で起源は奈良時代に鎮座されていたものと推測される。永禄3年(1560)三好長慶が飯盛山に居城した頃には飯盛城鎮護の神として崇敬も厚かった。御机神社古案内文には「・・・・古くは現在地の東方字宮地にあったが文禄年間(1592〜1596)に字城の堂山に移し更に元禄13年(1700)にこの地に移転したものである」と記されている。現在の社殿は明治14年に建て替えられたものである。 社頭掲示板 |
御机神社 御は美、」机は都久恵と訓べし、和名鈔、(木器類)机、(假字上の如し)○祭神詳ならず○中野村之内大上村に在す、(河内志、同名所図会)、 考証云、三箇村、 神社覈録 |
御机神社 本社は飯盛山の北麗にして現在の社地より東方にある字宮地に鎮座されていたのが文禄年間清滝の字「城」の堂山の北に移り、元禄十三年現在地に移された。 当社は延喜式内の古社にて起源は奈良町時代と推測されるが、平安時代の神仏習合により牛頭天王社と称し豊作を祈る水神信仰に基づく神として祀られた。現在の社殿は明治十四年の建築である。三好長慶が飯盛に居城した頃には飯盛城鎮護の神として崇敬も厚かったが、滅亡後現在地に遷宮されたと伝えられている。尚伴信友の神名帳考証には、姓氏録の「河内天孫津彦根命之後也」を引用して御机の机を津夫江ではないかと解している。 大阪神社庁 |