阪名道の西下、生駒山の山麓に鎮座する。 クロガネモチの保護樹木やカシ、シイの樹木におおわれた静かな境内である。 この地は一万年以前から河内湾→河内潟→河内湖と変貌をとげた低地であり、八〜九世紀ごろはまだ湿地帯であつた。 河内湖が縮少しても、なおこの地域には新開池、深野池などの大きな池が残り、この神社のすぐ西はそうした池の水辺になつていたと思われる。そのために水辺に祀られた神として渚濱(すはま)に位置していたことから、社名になつたものと考えられる。 渚浜(すはま)は大東市で現在知り得る最古の地名である。 神社の近くからはト骨や呪具と見られる遺物も出土しており、五〜六世紀ごろからの祭祀場所を承け継いできた霊地であつたことが推察できる。 祭神は木霊との伝承もあり、当社の西南5kmに彌生時代の前期〜後期につづく瓜生堂の彌生期大遺跡があり、この遺跡から発掘された方形周溝墓内の木棺や、大量の農耕用木製品が検出され、そうした木製品の原料がこの瓜生堂の周辺にはなく、主に山地から搬入したものとされている。これらの大量の樹木の供給地が、このあたりの生駒西麓にあるものと推察され、そうした伐採の木霊を鎭める祭祀場として、古代人から継承された地と考えると、木神を祀つているこの神社の初源が推量できるものと思われる。 |
須波麻神社 祭神は大国主命、いい伝えでは当社の祭祠は出雲大社と同体で、古くは10月7日に大祭をしていたという、現在の社殿は明治36年(1903)に建立されたもので、拝殿うしろの本殿は春日造りの様式である。 平安時代の「延喜式」「神名帳」に記載されている式内社で、本市では唯一のもの。旧讃良郡六座のうちの一座で、古くは讃良郡から若江郡に至るまで、数十ヶ村の氏子をかかえていたといい、明治6年には讃良郡内十一ヶ村の付属郷社になった。また明治40年9月には神社合併で大谷神社(寺川)、龍間神社(龍間)、坐間神社(深野南)の三社が合祀されることもあった。現在は中垣内一村の産土神である。 境内には合計十一基の燈籠があるが、拝殿の前のものは延享2乙丑(1745)9月に寄進されたものである。なお境内入り口のおかげ燈籠文政13年(1830)12月は道標を兼ねたもので近くの東高野街道筋から移されたものである。 大東市教育委員会 中垣内自治会 社頭掲示板 |
郷社 須波麻神社 祭神 大國主命 創立年代詳ならねど、醍醐天皇延喜の制小社に列り、祈年祭、鍬、靭各一口を加へらる、河内國讃良郡小社五座の一なり、(延喜式)、其後の沿革亦明かならす、当地の産土神たり(洞内名所図会)明治6年郷社に列す、境内390余坪(官有地第一種)、社殿は本殿、拝殿を備ふ。 明治神社誌料 |
須波麻神社 鍬靭 須披麻は假字也○祭神詳ならず○中垣内村に在す、(河内志、同名所図会)、 神社覈録 |