生駒山の南、鳴川峠から西へ下る途にある六萬寺山の西麓街中に鎮座している。社の西約200mを、東高野街道が南北に通じている。 社伝によると、神武天皇孔舎衛坂の戦いに利なくこの地に回幸したが風強く波高くして梶折れ、舟は水上を漂流して小丘に着き、暫し舟をとめさせられてこの船山の地に祖神である瓊瓊杵尊を祀られたと伝えられている。 到着の地は現在の下六万寺町3-3-6.7の地(字梶無)とされている。 |
梶無神社 梶無神社 六万寺町 船山明神と称する。 『延喜式』の神名帳に載る式内の古社で、古くは四条梶無里にあった。 梶無の名は、神武天皇の東征にあたって孔舎衛坂の戦いに利なくこの地に回幸したが、風強く、波高くして船の梶が折れたからだという。 氏子は六万寺町一円で夏祭は8月15日、秋祭は10月23日に行なわれる。 社頭掲示板 |
梶無神社略記 ご鎮座地 東大阪市六万寺町3-14-31 ご祭神 瓊瓊杵尊、木花開耶姫命 ご由緒 社伝によると、神武天皇は御東征の砌り、御船を白肩津から入江深く溯らせて来られたが、生駒颪により浪高く、梶折れ海上を漂揺する危機に立ち至られた。天皇は祖神の御加護を求め祈祷を籠められた為、さしもの強風も鎮まり波も穏やかになって、附近の丘に御船を付けて上陸することができた。天皇は、祖神の御加護を深く歓ばれて、その上陸した処に祖神の瓊瓊杵尊と木花開耶姫命を祭神として祠を建て、神々に感謝をなされた。この祠が後年梶無神社になったと云われている。 古代においては、日下の入り江がずっと南に入り込み、その低湿の地に近い下六万寺3丁目3番付近から5世紀頃ごろの祭祀遺跡である石製模造品が出土しているが、このあたりが神武天皇上陸の地とも云われている。また後三条天皇延久4年(1072)9月5日の太政官牒によると、この祭祀遺物が出土した西側から今の近鉄線の南側に至る六町四方の「梶無里」があったことがわかる。この「梶無里」は、現梶無神社の所領または神田の所在地であったとも云われ、現存する「小字梶無」は「梶無里」36の坪のうち17・18の坪に亘るあたりである。 梶無神社は「船山大明神」「桜井の社」とも云われ、梶無神社のご鎮座地周辺は古代の河内国河内郡に設けられた七郷の一つである桜井郷の中心地で、大化改新まで桜井屯倉(日本書紀安閑天皇元年条)が設けられた。 社格 官幣小社(延喜式) 村社(明治5年) 【中略】 大祭 春季大祭 3月15日 秋季大祭 10月23日(宵宮祭10月22日) 摂社 桜井神社 大己貴命(大国主命)を祀る 春日神社 天津児屋根命 比売命 経津主命 武甕槌命の4神を祀る 白峯神社 第75代崇徳天皇を祀る 八幡神社 誉田別尊(応神天皇)を祀る 十二社権現社 堂の宮とも云い、十二社権現を祀る 主な造営 ご本殿は、資料によると慶長16年(1611)七月、享保6年(1721)8月、文化元年(1804)3月にそれぞれ造営があった。以降昭和10年12月、平成7年7月に造営された。ご本殿の庇取付部は隅木無しの春日造りで室町時代以前の様式を今に伝えている。昭和10年の造営以前は、ご本殿の屋根は檜皮葺で、ご本殿全体が覆屋で覆われていた。御塀と垂木等の飾金物には十六菊御紋が用いられている。 境内 ご神木の老楠(樹齢五百年・幹回り510cm)を始め境内の樹木は東大阪市の保存樹林指定(平成3年3月25日指定)となり、アオハズクの繁殖地(東大阪市の天然記念物、昭和51年3月8日指定)となっている。秋季大祭及び宵宮祭には青年団によって担がれた大小六台のふとん太鼓台が、日中は氏子区域を巡航し午後八時から宮入が執り行われる ご霊験 神武天皇のご由緒により「みちびきの神」「乗り物の神」「交通安全の神」、またご本殿に夫婦神を祀ることから「安産・子安の神」「家内安全の神」とも云われ、昔からそのお守りとしてご本殿の御砂を受けられる崇敬者多々居られる。 社頭掲示板 |
梶無神社御社殿平成大修築記念碑 梶無神社御本殿並拝殿以下諸社殿修築工事は平成6年7月10日地鎮祭翌7年2月19日御本殿並拝殿上棟祭同7月21日御遷座祭夫々齋行 茲に且出度く竣工す 六万寺全町鎮護の神社として 末永き安泰を期し祭祀の弥栄を慮幾すると共に御社殿修築の為醇会せし氏子崇敬者の名を誌し以て其の敬神の誠を子々孫々に伝へむとす 平成7年10月吉日 社頭石碑 |
梶無神社 鍬 梶無は加知奈之と訓べし○祭神詳ならず〇六萬寺櫻井村に在す、今船山明神と称す、(河内志、同名所図会)、 社ノ北梶無といふ地名ありと云り、 神社覈録 |