古代河内湖への旧大和川(玉串川)の船着き場付近に鎮座。市場が立ち、市場村であった。 平野の旭神社摂社若宮八幡宮に伝わる縁起によれば、当時水害激しく、八幡宮の神託があつて、「櫛司と橘とを川上から流し、その漂着した処に神を祀れば、水難を止め、農民を安穏にしよう」とのことで、早速、大和・河内両国の境から、その二品を流し、櫛司の止まつた処に玉櫛明神を、橘の止まつた処に若宮八幡宮を祀つたという。 旧大和川の河畔に鎭座する社で、現在の社地の西約200mを南北に蛇行する道は、旧大和川の分流玉串川のなごりである。 花園北小学校の南、街中の社。生駒の山を臨み。本殿背後に御神体とされている津原池がある。 |
津原神社の由緒 津原神社を中心とした玉櫛之荘(七村)は同神社の祖神天玉櫛彦之命が太古此の地方に荒ぶる兇賊を鎮圧された功によりまして天朝から所領として腸り、其子孫が長く之を治めたと、古い歴史に伝へられています。天平勝宝六年(西暦780年〕当河内郡一帯に風水害は甚しく村人は極度に窮迫して之を救ケに術がなく、百姓は只管天侯の回復を祈るばかりてありました。 その時に加美村の八幡宮の祀部に神託があり、「大和川の上流より橘の枝と櫛笥を流し、その櫛笥の流れ止まる所に神を祀ったなれば、風水の禍は自ら治まるであろう…」とあったので、神託に随い、橘の枝と櫛笥を大和と河内の国境より流したところ、流に乗った櫛笥が、津原の池の瀞みに流れついて止りました。そこで玉櫛之荘の人々が相談し此の池の傍に社を建て、天児屋根命並びに玉櫛之荘の祖神天玉櫛彦之命・天櫛玉命を併せて祀りました風水忽ころに治まり自来池一帯は甚しい風水の害を蒙る事がなくなり、津原神社は近郷七村の総社として尊崇をあつめ今日に至っています。 神社の本殿前より玉串の鳥居までを馬場と呼び河内の三大馬場の一つとされ六丁(600m余)両側には老松、大杉、榎の巨木の並木が続いていました。 又本殿の北側には津原の池があり日照りの時には雨乞いをして池の水を田んぼに汲み出したと伝えられています。 社頭掲示板 |
津原神社 津原は都波良と訓べし○祭神詳ならず○市場村津原池側に在す、今玉串明神と称す、(河内志、同名所図会)、 神社覈録 |