旧社地は公園となつている。南側に大窪第二会館が建てられている。創立の事情・時期などわからない。またこの神社を氏神とした古代の氏族名も明らかでない。 江戸時代、当社は大窪村の神社であつた。しかし氏神は高安十一カ村の氏神である玉祖神社であつた。神社の位置が字比恵森といふことをみると、日吉社と呼ばれていたと思われる。 明治5年、村社に列せられ、御祖神社名も確定した。村社ではあるが、氏神でなかつたため、明治41年玉祖神社に合祀された。それ以後社殿はなく、今も跡地だけが残つている。 |
御祖神社 御祖は美於夜ど訓べし○祭神分明ならず○大窪村に在す、(河内志、同名所図会)、○総国風土記第廿三残欠云、高安郡御祖神社、圭田三十八束五毛田、雷神也、欽明3年始行神礼、 連胤云、総国風土記に祭神雷神といふは、鴨の縁に依れるなるべし、さては玉依姫といふべきをかくあるは論なし、故に今從はねども博覧に備ふ、抑御祖とは母神を称し、事、古事記例多し、かれ風土記に玉依姫とあれば論なきを志からず、志かれば次に鴨神社もませど、其御祖ともまた前なる高座神社の御祖とも定めがたし、恐らくは高座神社同階の神位をみれぱ、此御祖なるべし、猶後勘あるべし、 神位 三代實録、貞観2年11月丁丑朔、河内國從五位下御組神授正五位下、 神社覈録 |