旧大和川の東側・信貴生駒山系の西裾野に鎮座する。 雄略天皇の時代(470年頃)、藤原氏により祖神の天児屋根命を香取神宮から勧請して創建された。 旧社地は西800mの天王の森という。この恩智の天王の森を中心とする地域は、大阪府下でも有数の大彌生遺跡である。縄文から彌生時代へつづく大集落地帯であつたと思われる。 南北朝の初期に恩智の豪族恩智左近が居城を城山に造つたため、神社を下に見下すことになつたので、神社を城より上の位置へ移動したという。 最初は天児屋根を祀ったが、景雲年中これを枚岡に移し(或いは奈良春日ともいう)、後大御食津二座を祀るという。 また、恩智の神が泉州堺へ出るときは枚岡より留守番に来た。また明治維新までは奈良春日の猿楽は当社の猿楽が出張してはじめて行われたという。古来春日大社や住吉大社と関係が深い。 和銅3年(710)に周防国の玉祖神社から高安の玉祖神社へ天明玉命の分霊を勧請した際、分霊を一旦恩智神社に祀ったとされている。その結果、故、玉祖神は恩智神が出かけるとき留守番をし、玉祖の祭りには早朝先ず恩智へ詣でるようになったと伝。 鳥越憲三郎氏は、恩智神社は物部氏の旧氏神ではなかつたかとしている。 恩智神社の神宮寺は尼川山神宮寺いい、現在感応院と称し、神社の階段脇にある。 |
恩智神社 当社の創建は大和時代の雄略年間(470年頃)と伝えられ、河内の国を御守護のためにお祀りされた神社で国内でも有数の古社であり、後に延喜式内名神大社に列する神社である。 『恩智神社圭田八十三束三字田所祭手力雄神也雄略天皇3年奉圭行神事云々』と記されている(総国風土記)奈良時代(天平宝字)に藤原氏により再建されてより、藤原氏の祖神である『天児屋根命』を常陸国『現香取神宮』より御分霊を奉還し、摂社として社を建立したその後、宝亀年間に枚岡(枚岡神社)を経て奈良(春日大社)に祀った。従って当社は元春日と呼ばれる所以である。 神功皇后が三韓征伐の際、当社の神が住吉大神と共に海路、陸路を安全に道案内し、先鋒或は後衛となり神功皇后に加勢したその功により神社創建時に朝廷から七郷を賜った。以来、朝廷からの崇敬厚く、持統天皇の元年(689)冬10月に行幸されて以来、称徳天皇(第48代)天平神護景雲2年(768)には、河内、丹後、播磨、美作、若狭の地三七戸を神封に充てられ、文徳天皇(第55代)嘉祥3年(850)10月に正三位、清和天皇(第46代)貞観元年(859)正月に従二位、更に正一位に叙せられ、恩智大明神の称号を賜り、名神大社として、延喜式、名神帳に登載される。以後醍醐天皇、村上天皇の御字(延喜及び応和3年)の大旱ばつに勅使参向して祈雨をされ、その霊験があり、それぞれ蘇生したと伝わる。 また、一條天皇正暦五年(994)4月中臣氏を宣命使として幣帛を奉り、疫病等の災難除けを祈った。 これが当神社の大祓神事(夏祭・御祓い祭)の始まりとされている。尚、三代実録によれば当神社は下水分社といわれている。これは建水分神社(千早赤阪村)上水分社、美具久留御魂神社を中水分社といわれ、三社とも、楠一族が崇拝した神社である。 明治維新前迄は、奈良春日社の猿楽は当神社が受けもち、この猿楽座に対して、春日社より米七石五斗と金若干が奉納されていた。 社殿は、当初天王森(現頓宮)に建立されていたが建武年間に恩地左近公恩智城築城の折、社殿より上方にあるのは不敬として現在の地恩智山上に奉遷され、現在に至っている。 本殿の建築様式は、王子造り(流れ造りの一種)で極めて珍しい貴重な建築様式である。拝殿は、両部集合造で神仏混淆の造りとして、それぞれ江戸時代末期に地元辻野大工大長によって建て替えられたものである。 由緒書 |
恩智神社 御祭神 大御食津彦命 大御食津姫命 天児屋根命 由緒 当神社の創建は白鳳年間と伝えられ凡そ1300年の歴史を有する古社で延喜式内名神大社(全国285社の内当神社2座)である。 古くから朝廷の崇敬厚く持統天皇の元年10月に御幸されて以来、称徳天皇天平神護景雲2年には河内、丹後、播磨、美作、若狭の地37戸を神封に充てられ文徳天皇嘉祥3年10月に正三位、清和天皇貞観元年正月に従二位、更に正一位に叙せられ恩地大明神の称号を賜う名神大社として延喜式神名帳に登載される。 以後後醍醐天皇・村上天皇の御宇の大旱魃に勅使参向して祈雨をされその霊験がありそれぞれ蘇生したと伝わる。 また一条天皇正暦5年4月に中臣氏を宣命使として奉幣を奉り疫病等災難除けを祈った。これが当社の御飯祭(夏祭)の始まりとされている。 江戸時代終わりまでは奈良春日社の猿楽は当神社が受け持ち、この猿楽座に対して春日社より米七石五斗■若干が奉納されていた。 清明水は現在も湧き出ている。 社頭掲示板 |
恩智神社 式内社でもと天児屋根命をまつったが枚岡神社に遷座の後は五世の孫大御食津彦命、大御食津姫命をまつる。河内二宮で元春日と称されている。 当社は初め天王の森にあったが恩地城を築くにあたり現地へ移したと伝えられる。 古くからお粥占や茅巻の神事が行われ社殿裏には横穴式古墳があり北辺の垣内山は銅鐸出土地として名高い。 八尾市教育委員会 社頭掲示板 |
恩智神社 当社の創建は大和時代の雄略年間(470年頃)と伝えられ、河内の国を御守護のためにお祀りされた神社で国内でも有数の古社であり、後に延喜式内名神大社に列する神社であります。 「恩智神社圭田八十三束三字田所祭手力雄神也雄略天皇三年奉ニ圭田一行ニ神事一云々」と記されています。(総国風土記)奈良時代(天平宝字)に藤原氏により再建されてより、藤原氏の祖神である『天児屋根命』を常陸国「現香取神宮」より御分霊を奉還し、摂社として社を建立したその後、宝亀年間に枚岡(枚岡神社)を経て奈良(春日大社)に祀られました。従って当社は元春日と呼ばれる所以であります。 神功皇后が三韓征伐の際、当社の神が住吉大神と共に海路、陸路を安全に道案内し、先鋒或は後衛となり神功皇后に加勢したその功により神社創建時に朝廷から七郷を賜りました。 以来、朝廷からの崇敬厚く、持統天皇の元年(689)冬10月に行幸されて以来、称徳天皇(第48代)天平神護景雲2年(768)には、河内、丹後、播磨、美作、若狭の地三七戸を神封に充てられ、文徳天皇(第55代)嘉祥3年(850)10月に正三位、清和天皇(第56代)貞観元年(859)正月に従二位、更に正一位に叙せられ、恩智大明神の称号を賜り、名神大社として、延喜式、名神帳に登載されました。以後醍醐天皇、村上天皇の御字(延喜及び応和3年)の大旱ばつに勅使参向して祈雨をされ、その霊験があり、それぞれ蘇生したと伝わっています。 また、一條天皇正暦五年(994)4月中臣氏を宣命使として幣帛を奉り、疫病等の災難除けを祈願されました。これが当神社の大祓神事(夏祭・御祓い祭)の始まりとされています。 尚、三代実録によれば神社は下水分社といわれています。これは建水分神社(千早赤阪村)上水分社、美具久留御魂神社を中水分社といわれ、三社とも、楠一族が崇拝した神社であります。 明治維新前迄は、奈良春日社の猿楽は当神社が受けもち、この猿楽座に対して、春日社より米七石五斗と金若干が奉納されていました。 社殿は、当初天王森(現頓宮)に建立されていましたが建武年間に恩地左近公恩智城築城の折、社殿より上方にあるのは不敬として現在の地恩智山上に奉遷され、現在に至っています。 本殿の建築様式は、王子造り(流れ造りの一種)で極めて珍しい貴重な建築様式であります。拝殿は、多くの人たちの熱い願い(浄財)で平成12年流造千鳥破風の社殿が建てられました。 公式HP |
恩智神社 祭神 大御食津彦大神 (天児屋根命の五世の孫) 大御食津姫大神 (伊勢神営外宮豊受姫大神) 天児屋根命(元春日) 由緒 当神社の創建は大和時代(470年頃)と伝えられ凡そ1500年余の歴史を有する古社で延喜式内名神大杜(全国285杜の内当神杜二座)である。 古くから朝廷の崇敬厚く持統天皇の元年(689年)10月に行幸されて以来、称徳天皇天平神護景雲2年には河内・丹後・播磨・美作・若侠の地三七戸を神封に充てられ文徳天皇嘉祥3年(850年)10月に正三位、清和天皇貞観元年(859年)正月に従二位、更に正一位に叙せられ恩智大明神の称号を賜り明神大社として廷喜式名神帳に登載される。以後醍醐天皇、村上天皇の御字の大旱ばつに勅使参向して祈祷をされ、その霊験がありそれぞれ蘇生したと伝わる。 また一條天呈正暦5年(994年)4月に中臣氏を宜命使としで幣帛を奉り疫病等災難除けを祈った。これが当神社の御祓祭(夏祭)の始まりとされている。 江戸時代終わりまでは奈良春日社の猿楽は当神社が受け持ち、この猿楽座に対して春日社より米七石五斗金若干が奉納されていた。 尚、三代実録によれば当神杜は河内国下水分社といわれその霊水(清明水)は現在も湧き出ている。 社頭掲示板 |
恩智神社 おんちじんじや 大阪府八尾市恩智。 祭神、大御食津彦大神・大御食津姫大神の二柱。称徳天皇天平神護景雲2年(768)河内・丹後・播磨・美作の地三七戸を神封に充てられた。文徳天皇嘉祥3年(850)10月、正三位、同じく清和天皇貞観元年(859)正月には従二位に叙せられ、『延喜式神名帳』には名神大社として登戟されている。 この地にほ初め天児屋根命を祀っていたが、枚岡の地に遷された、その後、更に春日大社に奉遷したということから、元春日の称がある。例祭は11月26日、8月1日の夏祭に、神輿が泉州堺に出御されるが、そのとき枚岡より当社に来て守護するのは、春日大社との関係を、物語るものであり、春日の猿楽も、当社より発祥したという由緒をもっている。当社地はもと天王の森にあったが、南北朝時代築城の際、現社地に奉遷された。神宮寺天川山感応寺は維新に分離し字馬田に移転した。 神社辞典 |
郷社 恩智神社 祭神 大御食津彦神 大御食津姫命 創祀年月は詳ならす、されど当社の縁起に、昔神功皇后三韓を攻めたまふ時、此神住吉大神と海上にあらはれ、或は先鋒となり、或は後衛となり、以て皇軍を助けたまひしかば、御凱旋の後殊に住吉神と共に崇めて封を賜ひ、当社には七郷の地を授けて尊崇他社に越えぬとあれば、其以前の鎮座なる事明なり、然るに元明天皇和銅年中玉祖大神周防国より来りて、鎮座の地を住吉大神に請ひしに、封内の狭隘を謝して之を拒絶せしかば、来つて当社に請ふ、当社は其封七郷の内六郷を割きて鎮座の地と定めしかば、玉祖大神之に感じて年毎に当社の祭日、神輿出つれば、玉祖大神其宮に入りて留守をなし、玉祖神社の祭日には、早朝先つ恩智神に神饌を奉る由記したり(社伝)、称徳天皇天平神護2年河内、丹後、播磨、美作の地三十戸を神封に充奉り、(新抄格勅符)清和天皇貞観元年正月正三位勲六等より、従二位に進められ、9月雨風の御祈によりて奉幣使を遣はし、(三代実録)醍醐天皇延喜の制並びに名神大社に列り、祈年、月次、相嘗、新嘗の案上幣帛に預る、高安郡四座の内二なり(廷喜式)、一條天皇正暦5年4月疫病放火の御祈あり、中臣氏の人を宣命使として幣帛を奉りし(本朝世紀)等由緒頗る顕然たり、当國二の宮と称して、もと当村の西に在りしを、後今の地に遷しゝなりといふ(社記)、古は尼川山神宮寺といふ伽藍ありて、薬師堂、観音堂、毘沙門堂等壮麗なりきと(名所記)、又恩智、神宮寺の産土神たり、明治6年郷社に列す、境内494坪(官有地第一種)本殿、拝殿、神饌所、休息所等の建物を有し、恩智山の半腹に在り、麓の島居より本社まで六町の間、石階重畳し、三方に丘陵を巡らし、神境更に尊厳を加ふ。 明治神社誌料 |
恩智神社二座 並名神大月次相嘗新嘗 恩智は音読也○祭神大御食津比古神、大御食津比盗_歟、○恩智村に在す、(河内志、同名所図会)、例祭6月27日、○当国二宮也、(啓蒙頭注)○式二、(四時祭下)相嘗祭神七十二座、恩智社二座、(坐河内国)同三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、河内国恩智神社二座、」祈雨祭神八十五座、(並大)云々、恩智社二座、○永寓記云、恩智社、(鳥羽院女房右衛門子孫伝領云々、)○式廿一、(玄蕃)凡新羅客入朝者、給神酒、其醸酒料稻、河内國恩智一社、三十束、送住道社、(全文大和国葛上郡高鴨神社の條見合すべし)〇姓氏録、(河内國神別)恩智神主、高魂命児伊久魂命之後也、」○樹下神系図云、(啓蒙引用)河内國恩智大明神、中臣朝臣藤原朝臣之遠祖也、○総國風士記第廿三残欠云、高安邪恩智神社、圭田八十三束三字田、所祭手力雄神也、雄略天皇3年奉圭田行神事、凡祈力藁相撲者詣此神、 連胤云、総国風土記にいふ祭神は、異説なれば今從はねども博覧に備ふ、 神位 文徳実録、嘉祥3年10月辛亥、授河内國恩智大御食津彦命神、恩智大御食津姫命神、並正三位、』三代実録、貞観元年正月27日甲申、奉授河内國正三位勲六等恩智大御食津比古神、恩智太御食津比当ス神、並從二位、 官幣 三代実録、貞観元年9月8日庚申、恩智神、遣使奉幣帛、為風雨祈焉、 神社覈録 |