旧大和川の東側・信貴生駒山系の裾野を巡る京街道の東沿い、恩智神社の南にある。 「全国神社祭祀祭礼総合調査」では社名を「常世岐姫神社」とし、記録でも明治に八王子神社から常世岐姫神社に改称したとあるが、社頭の石標や石碑には「八王子神社」と表記されている。 河内志の編者・並河誠所が、忘れられかかっていた式内社を調査・比定するなかで、神宮寺村の八王子社を式内・常世岐神社に充てたものというが、その根拠は不明。 中国「燕」からの渡来人で、公孫氏の子孫を名乗る常世連の祖神を祀つた神社であった思われる。 常世連はもと赤染造は染色工芸技術を持つ氏族と言われている。 近世には、この神社のある神宮寺村は恩智村とともに、恩智神社の氏地であつた。 中世末に恩智神社は牛頭天王を勧請したので、おそらくこの神に関連して、当社が八王子社といわれたと思われる。 |
八王子神社 式内社で常世岐姫神社といったが地元では八王子神社として親しまれている。 古記録によれば宝亀7年(776)の夏大県郡の人正六位上赤染人足ら13人に常世岐の姓を与えたという。 この赤染とは茜染のことでこのあたりの人々が茜染をやっていたことがわかりこの人々の祖神を祭ったものであろう。今は安産の神として名高い。 八尾市教育委員会 社頭石碑 |
常世岐姫神社 常世は止古與、』岐は布那止と訓ベし、○祭神分明ならず、○神宮寺村に在す、今八王子と称す、(河内志、同名所図会)、 連胤按るに、姓氏録、(河内国諸蕃)常世連、燕國王公孫淵之後也、(右京諸蕃上)常世連、同上、」同、(右京諸蕃下)道祖史、百濟国王孫許里公也とあれば、恐らくは常世、遺祖両氏の氏社にもやあらむ、 官社 三代実録、貞観9年2月26日丙申、以河内國大縣郡常世岐姫神、預官社、 神社覈録 |