石神社
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   【延喜式神名帳】石神社 河内国 大県郡鎮座

   【現社名】石神社
   【住所】大阪府柏原市大字太平寺2-19-13
       北緯34度34分55秒,東経135度38分1秒
   【祭神】石長姫命 石姫命 熊野権現
       『大阪府誌』『大阪府全志』宣化天皇の皇后の石姫
       『特選神名牒』不詳
       『神社覈録』石神

   【例祭】10月19日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】天平12年(740)2月7日聖武天皇知識寺に行幸
       貞観9年(867)2月官社に預かつた『三代實録』
       享保17年(1732)熊野大権現宮と称した
       明治5年(1872)村社に列せられ、石神社の名も確定した

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】自然の岩盤か?
   【祭祀】江戸時代は「熊野大権現」と称していた
   【社殿】本殿流造
       幣殿・拝殿・手水舎

   【境内社】

山腹の神社。見晴らし良好である。
「創立の時代はわからないが、石神社という社名から考えると、自然の大きな岩盤などを神体とした古い神社であるのかもしれない。」とするが岩盤は不明。
石神社のある場所は知識寺のすぐ東隣りにあたつている。
この神社を氏神とする氏族はわからないが、知識寺などに関係する神社であつたのかもしれない。
境内鳥居脇に知識寺の塔心礎がある。



知識寺跡(付近一帯)

この付近一帯には1300年の昔、奈良東大寺大仏が造られる機縁となった「知識寺」と呼ばれる有名な大寺があった。
絢爛たる天平文化を築かれた聖武・孝謙・称徳の各天皇は千余にのぼる百官を伴い平城京と難波宮を往還され、この間二日の行程で中継地点の柏原の地は風光明媚水陸交通の要衝で古代からの主要地域であり知識寺を中心にこの地の文化が繁栄した。
またこの地区の山麓に甍を連ね知識・山下・大里・三宅・家原・鳥坂等六大寺があり諸天皇が行幸の途次礼拝された。
聖武天皇、光明皇后、孝謙天皇ご三方知識寺の大仏をご覧になり、その立派さに感動され、これを銅で造られたのが奈良東大寺の大仏である。
以後奈良時代には日本三大仏として大和太郎(東大寺大仏)、河内次郎(知識寺大仏)、近江三郎(関寺大仏)があり有名であった。
丈長18m(六丈)の粘土造りの観音像も孝謙天皇の天平勝宝7年(754)に造られ同寺に祀られていたことが国史に見られる。
都が京に遷された平安初期貞観5年(863)に清和天皇から銭20貫文鉄20挺の下賜があり知識寺の大修理をされた。平安末期長元3年(1030)に関白藤原頼道が参詣している。
ところが応徳3年(1086)に至り、知識寺が突如倒壊した。鎌倉時代には知識寺旧地に太平寺と呼ばれる大寺が建立されたが現在はこの地名のみ伝えられている。
現在の遺跡としてはこの寺の境内の礎石(大1ヶ小3ヶ)と上の井戸「清浄泉」と「知識寺中門観音寺」の遺宝及び「長命泉」があり、尚往事の名残として広範囲に地名として堂、塔、門跡等が遺っており往年の伽藍の大きさを偲ばせている。
柏原市教育委員会

社頭掲示板



知識寺

この付近一帯には、「知識寺」と呼ばれる有名な古代寺院跡があり、 地名から太平寺廃寺とも呼ばれています。
奈良時代、聖武天皇や孝謙天皇は、平城宮と難波宮の往来の途中に柏原の地を訪れ、知識寺、山下寺、大里寺、三宅寺、家原寺、 鳥坂寺の六寺に礼拝、礼仏されました。
中でも知識寺にはおおきな盧舎那仏があり、それを見た聖武天皇は、その立派さに感動し、奈良東大寺の大仏を造るきっかけとなりました。
知識とは、仏教を信仰し、寺や仏像を造ることに協力した人のことであり、知識寺は、これら知識によって立てられた大規模な寺院でした。
知識寺は東西に二塔を配する薬師寺式の伽藍配置であったと推定され、東塔跡の一部が過去に調査されています。
出土した瓦から、1300年以上前の飛鳥時代末頃に創建され、室町時代頃に廃絶したようです。
石神社の境内には、東塔に使用されていた塔心礎をはじめとする礎石が移されています。
平成7年3月      柏原市教育委員会

社頭掲示板



清浄泉

この井戸の水脈は、生駒山地の地形生成時に生じた 岩盤の節理に沿うもので、岩盤が地表近くなり、 上面に湧き出る清泉水です。今から1300余年前、 このあたりに河内六寺が甍を連ねていました。
その中の「知識寺」がこの井戸の近くにあり、 東大寺の大仏の手本とされた大きな仏像がありました。
聖武天皇、孝謙天皇、弥徳天皇等が行幸され、知識寺 の南には「行宮」が造られました。昔から天皇や僧侶、 村人がこの井戸の水を飲み水として使っていたものと 考えられます。俗説に空海がこの地を訪れて、 この井戸を掘り起こし、付近の住民や農作物を 干ばつから救ったとの伝えがあり今も「大師の水」 として貴重がられています。
この清浄泉は、歴史的に大切なものであると認められ 井戸と水脈を含む地域が大阪府文化財保護条例に 基づいて史跡に指定されました。
清浄泉保存会・柏原市教育委員会

社頭掲示板



智識寺東塔刹柱礎石

大阪府指定文化財 智識寺東塔刹柱礎石
智識寺は、奈良・平安時代を代表する大寺院で東大寺大仏造顕の機縁となった大仏を本尊とし。聖武・孝謙帝、藤原頼道などの参詣、法華寺への銅の運上といった動きが知られています。
伽藍は東・西二塔をもつ薬師寺式の配置で、この刹柱礎石は、東塔跡と推定される大平寺2丁目18-7・山本義一氏宅地東角の土蔵付近から出土したものです。花崗岩製で、この塔心礎の柱穴の直径は122cmあり、この上に建てられていた塔は高さ48.8mの五重塔であったと推定されます。
智識寺の大仏は高さ18mと伝えられ、この礎石から推定される塔も、そうした巨大な仏像を本尊とする大寺院にふさわしい大きさです。
1989年3月  大阪府教育委員会、柏原市教育委員会

社頭掲示板



石神社

石は伊波と訓べし、(和名鈔云、磐ハ大石也、和名以波、」石ハ凝土也、和名以之、とあれど、石も以波と読こと、古今ともに多げれば、今伊波と読り、)○祭神明か也○太平寺村に在す、今熊野と称す、(河内志・同名所図会)
類社
伊勢国鈴鹿郡、同國員弁郡、陸奥國桃生郡、同國賀美郡賀美石神社、(各一座)同国膽澤郡磐神社、
連胤按るに、各國の中に印本伊之、伊披、両点相交れり、其故実ありやなしや、今知れねども分明ならず、恐らくは故実あるにはあらじ、囚て共に伊波と読り、
官社
三代實録、貞観9年2月26日丙申、以河内國大縣郡石神、預官位、

神社覈録



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