集落の上隅。山中に鎮座する。本殿前の石段は急である。本殿向かって左は富士神社、右は山王神社が鎮座する。 社名の大狛は高麗系帰化氏族である大狛氏に由来すると思われる。巨麻郷は彼らの住地であつた。大狛神社は彼らの祖神を祀つた神社であつたと考えられる。 神社に隣りあつてすぐ下に生安寺がある中世末から近世にかけて、この寺と神社は密接な関係があったものと思われる。 江戸時代に、この神社は山王権現あるいは富士権現を祀っていた、明治に入り、社名は大狛神社とされ、山王権現と富士権現は本殿からおろされて、末社として祀られるようになつた。 |
古代の本堂一河内国大県郡巨麻郷と大狛神社 柏原市本堂は信貴山朝護孫寺南側の山間地にあたり、古代には河内国大県郡巨麻郷と呼ばれ、狛氏が住んでいた土地です。狛氏は朝鮮半島の高句麗から移り住んだ人々で、同族が畿内一円に繁栄しました。天台宗の総本山である比叡山延暦寺の第四世天台座主(住職)を務めた安慧(794?〜868)は、河内国大県郡出身の大狛氏と伝えられています。ここ大狛神社にはその祖先神や大山咋神・木花開耶姫神・山王権現・富士権現などが祀られています。 本堂のような急峻な土地に一郷をたて、集落が営まれた背景には、七世紀後半の政治情勢がありました。当時、わが国と新羅・唐とは戦争状態にあり、防衛拠点として生駒山地の高安山から信貴山にかけて安城が築かれました。『柏原市史』は、その維持・管理を担う要員や資材を確保するため、近接した土地に集落が営まれたのではないかと指摘しています。 平成24(2012)年12月 柏原市教育委員会 社頭掲示板 |
大狛神社 大狛は於保巨麻と訓べし、和名鈔、(郷名部)巨麻、○祭神分明ならず○本堂村に在す、今山王と称す。(河内志、同名所図会)、○姓氏録、(河内国諸蕃)大狛連、高麗國人、伊利斯沙禮斯之後也、また大狛連、高麗溢士福貴王之後也、〇当國渋川郡許麻神社もあり、 神社覈録 |