天湯川田神社
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   【延喜式神名帳】天湯川田神社 河内国 大県郡鎮座

   【現社名】天湯川田神社
   【住所】大阪府柏原市大字高井田89番地
       北緯34度34分25秒,東経135度37分58秒
   【祭神】天湯河棚命 天児屋根命 大日霊貴命
   【例祭】10月17日に近い日曜日
   【社格】旧村社
   【由緒】景行18年、勅命にてこの地に宮柱を建て神地、神戸を定めた
       天平勝宝8年(756)、孝謙天皇が河内国知識寺を参拝
       弘仁式の当時から官社であつた
       明治5年(1872)村社 社名も天湯川田神社と旧に復す

   【関係氏族】鳥取氏
   【鎮座地】この丘または近辺に創祀
        もと比叡の森に鎮座という。比叡の森不詳

   【祭祀対象】鳥取氏の祖神天湯河桁命を祀つた神社
   【祭祀】中世から江戸時代は「川田大明神」「大宮大明神」「春日社」と称していた
   【社殿】本殿流造
       拝殿・倉庫

   【境内社】若宮神社、古野神社、平戸神社・山王神社

大和川東岸の小さな独立丘の上に鎮座する。JR大和路線と近鉄大阪線の線路に挟まれている。
天平勝宝8年(756)、孝謙天皇が河内国知識寺(柏原市太平寺にあり)の南行宮に来られた時、天皇は知識・山下・大里・三宅・家原・鳥坂の六カ寺を巡拝された。このなかの鳥坂寺は天湯川田神社のある丘陵の上に遺構がみつかつている。現在の社殿はその塔跡の部分に立つている。鳥坂寺は鳥取氏の氏寺あり、当時は氏寺である鳥坂寺と近接して、氏神の天湯川田神社もあつて、ともに鳥取氏からあつく崇拝されていたことと思われる。
中世6月7日の祭礼に神幸するところを比叡の森といつたという。ここには山王権現社があってあつたが、ここが大宮川田明神の旧殿のあつたところと伝えている。比叡の森が現在どこにあるかは不明である。
「現在の末社山王神社は比叡の森にあり、川田明神の旧社地と伝えている」と記載されているが、現在山王神社は本殿すぐ右手に鎮座しており不詳。
当社は、和泉国鳥取郷から移ってきた鳥取氏が、鍛冶・製鉄作業の守護神としての天湯河棚命を祀ったものと思われる。


鳥坂寺塔跡

ここは奈良時代に聖武・孝謙帝が巡拝した河内6寺の一つ「鳥坂寺」の塔跡で、昭和36年の発掘調査で塔心礎と雨落溝が発見されました。塔心礎は基壇面よりも深く埋め込まれた地下式心礎で、一辺1.2m、厚さ63cmの花崗岩製。柱穴の直径は底部で50.5cm、深さ15.5cmの円錐形の舎利孔があり、土層の観察から心柱を粘土で巻き、さらに木炭と小石混じり土で互層に埋め立てていることがわかりました。柱穴の大きさや心礎と雨落溝の距離から見て、塔は高さ20mの三重塔で、7世紀中〜後半にかけて建立されたものと推定されます。
1990年3月
柏原市教育委員会

社頭掲示板




式内天湯川田神社

御祭神
本殿 天湯川桁命
東の相殿 天児屋根命
西の相殿 大日霊貴命
御鎮座
第12代景行天皇19年9月(西暦90年)に勅命により祭祀されたと伝えられている。
祭日 7月17日 10月17日
天湯川桁命
第11代垂仁天皇の皇子誉津別命は、壮年になっても言葉を話す事ができなかった。
ある日、大空を飛ぶ鵠(ハクチョウの古称)をみて、言葉を話し鳥の名を尋ねられた。天皇は天湯川桁命にこの鵠の捕獲を命じられた。
天湯川桁命は鵠の飛び去った方向を尋ね、遠く因幡の国(鳥取県)にて雌を捕らえ、また出雲国(島根県)にて雄を捕らえて、献上した。
皇子は鵠を大切に可愛がり、以後言葉をよく話すようになった。天皇は天湯川桁命の功績を賞し、鳥取の連(姓のこと)を賜った。
古事記に山辺之大■とあるのは、この神のことである。
(古事記・日本書紀)
堅下村誌より

社頭掲示板



鳥坂寺跡

大阪府柏原市大字高井田89番地
 2012年01月24日指定
 大和川に臨む生駒山地末端の丘陵上に位置する古代寺院跡。周囲には、鳥坂(トサカ)寺跡を含めて「河内六寺」と呼ばれる寺院跡の外、7世紀まで造営が続く平尾山古墳群が存在している。
 『続日本紀』には、天平勝宝8(756)年2月24日、平城宮を発した孝謙天皇・聖武上皇・光明皇太后が難波宮へと向かう途中、智識(チシキ)寺・山下(ヤマシタ)寺・大里(オオサト)寺・三宅(ミヤケ)寺・家原(イエハラ)寺・鳥坂寺の河内六寺に順次立ち寄った記事がある。
 この地には、天湯河棚命(アマノユカワタナノミコト)・天児屋根命(アメノコヤネノミコト)・大日霊貴命(オオヒルメノムチノミコト)を祭る延喜式内社の天湯川田(アマノユカワタ)神社〔村社〕が建つ。大日霊貴命は天照大神の別名であり、天湯河棚命は神皇産霊尊(カミムスビノミコト)の子である角凝魂命(ツヌコリタマノミコト)の三世の孫とされる。河内国大県(オホアカタ)郡には、鳥坂郷の東に隣接して鳥取郷があり、天湯河棚命の子孫と称する鳥取氏の居住地となっており、天湯川田神社の社家は近代に至るまで鳥取氏が務めていた。
 昭和4(1929)年に神社境内から大型鴟尾(シビ)が出土し、その後の発掘調査の結果、金堂・塔・講堂・回廊等が伽藍中枢部を構成、その東側では僧坊や食堂(ジキドウ)と推定される掘立柱建物群がある事も明らかとなった。神社本殿が建つ場所が塔跡である。出土した瓦や土器の分析から、7世紀後半に創建され、概ね10世紀まで存続していたようである。
 出土遺物には多量の瓦類や墨書土器がある。このうち、軒瓦は朝鮮半島の特徴を有しており、渡来人との関連が窺える。また「鳥坂寺」と墨書された土師器(ハジキ)が出土しており、この寺院跡が鳥坂寺跡である事が証明された。
 鳥坂寺跡は伽藍中枢部及び周辺施設の状況が判明し、特に金堂等の遺構の残存状況が良好であるのみならず、古代寺院関連の遺跡において寺の名称が明らかとなった稀有な事例としても重要である。
 大阪府立近つ飛鳥博物館に復元模型がある。

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物言はぬ皇子

垂仁天皇の皇后狭穂姫の兄に当る狭穂彦王は、天皇を弑し奉り、自分が皇位に就きたいとの野心を持って、或る日、この大望を密かに皇后に打明け、猶一振りの短刀を手渡し
「これで天皇を一刺して下さい」
と頼み込んだ。皇后は、一人は脊の君であり、一人は血を分けた兄の事でもあり、中に立って狭穂姫皇后は途方に暮れてしまった。併かしそうした事を夢にも知らぬ天皇は、皇后の膝を枕に何の不安も無さそうに眠つてゐられた。皇后はこの和やかな天皐の寝顔を眺められた時、何の罪もない我が脊の君を兄の命令で刺し奉らねばならぬかと思ふと、急に悲しくなり、ハラハラと天皇のお顔の上に涙を落された、冷たい雫に目を覚まされた天皇は、ビックリしてその訳を訊ねられたので、皇后も今は包み切れす、兄さ狭穂彦の謀反を申し上げると、天皇は大層お怒りになって、直ちに討手の軍を狭穂彦王の方へ向けられた。
皇后はこの時御懐妊中であつたが、兄の事も気になるので、夜半密かに兄の城へ逃げ帰られた。そして、兄の城で皇子を御分娩になったが、皇后は天皇と兄とが敵味方になった今日、再び天皇のお側へ帰るのも如何と思ひ、城に止まり兄と運命を共にする決心をした。けれど、産まれた皇子は天皇の御嫡流であり、今ムザムザと朝敵となった者共と一緒に滅ぼしては天皇に申訳がないと思はれ、ある夜、ソッと可愛い皇子を城を取巻く天皇の軍勢にお渡しになった。天皇は、猿穂彦王を憎んでは居られたが、皇后を殊の外愛されてゐたし、又生まれたばかりの皇子の養育にも皇后の居らぬといふ事は伺かにつけ不自由なので再三運れ出すように計られたが果たさず、遂に、皇后は兄命と共に城に火を放って、悲しい最後を遂げられた。天皇は皇后を失はれた皇子に、誉津別命といふ名を付けられ非常に可愛がられたが、何うした事か皇子は一言も発せられなかつた。天皇はこれを悲しまれて色々と手当をされたが、一向に効果がなかった。処が或る日の事、大空を翔ける白鳥の姿を見てゐた皇子は、初めて「あ…」と聲を立て、笑はれた。天皇は大変お喜びになって天湯河板挙といふ者を召し
「あの鳥を取って参れ、あの鳥さえあれば皇子は物を云ふだろう」
と命じた、天湯河板挙は早速命を奉じてこの鳥の跡を追って遂に出雲まで行き、やっとその白鳥を捕へて天皇に献上した。天皇は大いに喜ばれ、ぞの鳥を皇子に見せると、それから皇子は次第に物を言ふ様になったので、天皇は河板挙の功労を賞し、彼に鳥取造の姓を賜ったと言ふ。
中河内郡堅下村大字高井田天湯川田神社は即ち天潟河板挙を祭ってあるのである。又宿奈川田神社は親を祀つてあると言ふ。

社頭掲示板



天湯川田神社

天湯川田は阿麻乃由加波多と訓べし〇祭神明か也、(鳥取氏社なるべし)○高井田村ノ西に在す、(河内志、同名所図会)〇旧本紀、垂仁天皇23年10月乙丑朔壬申、天皇立於大殿前、誉津別泉子侍之、於是、鳥取造祖天湯河板挙奏言、云々、11月甲午朔乙未、湯河板挙献鵠也、誉津別命弄是鵠、遂得言語、○姓民録、(河内国神別)鳥取、角凝魂命十三世孫天湯河桁命之後也、』また美努連、同神三世孫天湯川田奈命之後也、同、(和泉国神別)烏取、同上」同、(右京神別上)鳥取部連、角凝魂命十三世孫天湯河桁命之後也、垂仁天皇皇子誉津別命、年向三十、不言語、于時見飛鵠問曰此何物、爰天皇悦之、遣天湯河桁尋求、詣出雲國宇夜江、捕貢之、天皇大喜、即賜姓鳥取連、
氏人
続日本紀、天平神護元年正月己亥、外正六位上烏取部興曾布外正五位下、正六位上鳥取連大分、美努連智麻呂、並外從五位下、

神社覈録



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