玉手山公園北の小さな尾根の中腹に鎮座する。 玉手山丘陵の西側を石川が北流しているが、この石川は古く博多川或いは伯太川と称されていた。 境内南に宮寺であつた安福寺が接している。 伯太川の沿岸で農耕に従事した田部(タノベ)即ち田辺史の祖先である伯孫を祭ったとされている。 伯太彦神社のある玉手山丘陵には、丘陵の一部を利用して作られた古墳時代前期(四世紀頃)のものと推定される前方後円墳等より成る古墳群が存在する。また麓周辺には、古墳時代後期(六世紀頃)に築造されたと推定される古墳群が存在している。さらに安福寺参道の両側には、六世紀後半から七世紀前半に作られたと推定される横穴古墳群が存在しており、それらの中には凝灰岩の壁面に騎馬人物像等の線刻壁画を有するものがある。 伯太姫神社と対をなす神社と思われる。 |
伯太彦神社 伯太彦神社(はくたひこじんじゃ) 御縁起 本殿 御祭神 伯太彦命、廣國押武金日命 若宮社 御祭神 大物主命 御祭礼日 夏祭7月17日 秋祭10月17日 近都飛鳥の安宿郡資母郷にあたる柏原市玉手山の安福寺(あんぷくじ)に隣接した天王台(てんのうだい)と称する丘陵に伯太彦神社(はくたひこじんじゃ)がある。 古くは躑躅尾社(つつじおしゃ)とも牛頭天王(ごずてんのう)とも称せられる。 創建年代は不詳であるが、平安末期階従五位下延喜式内の古社にして文徳(もんとく)天皇、天安2年(858)一月官社に列せられる。 御祭神である伯太彦命は古事伝承によれば伯孫百尊とも称される。 伯太彦命(宿孫百尊)は、田邊史の祖で崇神(すじん)天皇の皇子の豊城入彦命の四世大荒田別命の子孫の努賀君の子とされる。 百尊の孫の斯羅が皇極の御代に田邊史一族として安宿郡の資母郷に居を構えたとの伝承がある。 白鳳から奈良時代にかけて栄えた藤原氏に仕えた田邊史一族がこの地に勢力を持っており、なかでも田邊史大隈は(中臣)藤原鎌足の資人として活躍した。 続日本紀に宝亀元年(770)称徳天皇が由義宮へ行幸した際、博多川(現在の石川)に臨んで宴遊し、百官等が曲水の詩を献上した。 翌日には、歌垣を行い 【淵も瀬も清くさやけし博多川 千歳を待ちて 澄める川かも】 と歌を言祝だ。 近くの玉手山丘陵は全山躑躅が咲き誇り盛んに花見の宴を催された様である。 明治4年大政奉還布告(神仏分離令)により寺より独立し、明治5年国史に於ける村社に列せられる。 明治42年2月に誉田神社(こんだじんじゃ)へ合祀され、その後自然災害が続いた為、白木村より御神殿を新たに求め当地に祀られる。 昭和11年5月17日社殿を合祀先より当地に御復帰し若宮殿として並び再祀される。 昭和22年1月30日神社法人令により神社庁の神社法人となる。 社頭掲示板 |
府史跡 安福寺横穴群 ここ安福寺の参道には、三十五基の横穴が口を開いています。 向かし、火の雨が降った時に避難した穴だとか、古代人の住居跡だとか言われたこともありますが、実は1400年くらい前(古墳時代後期)のお墓なのです。 凝灰岩の岩盤をくり抜いて造られ、中には棺を造り出した横穴もあります。 また次々と造られた横穴が、現代のマンションのように二層三層に重なって密集しているのも大きな特徴です。 これらの横穴は、六世紀の中頃から七世紀の初めにかけて造られたことが、出土した土器などからわかっています。 その時代には石を組んで造った石室に土を盛った古墳(横穴式石室墳)が多く、横穴は大阪府では柏原市にしかみられない珍しいものです。 私たちの大切な文化遺産ですから、傷つけることのないようにしてください。 また壊れやすくなっていますので、見学には十分注意して下さい。 史跡指定月日、昭和48年3月30日(史第35号)、昭和59年5月3日(追加指定) 平成8年12月、大阪府教育委員会、柏原市教育委員会 社頭掲示板 |
伯太彦神社 鍬 伯太彦は波可多比古と訓べし○続日本紀、神護景雲4年3月辛卯、歌垣歌曰、布智毛世毛、伎與久佐夜氣志、波可多我波、知止世乎方知天、須売流可波可毛、(名所図会に、博多川は石川の別名 也、伯太神社の西をいふと云り、○祭神明か也○玉手村に在す、今牛頭天王と称す、安福寺の鎭守とす、(河内国名所図会〇志に、今俗の唱へをいはざるは疎也)○姓氏録、(未定雑姓和泉国)伯太首、天表日命之後者、 類社 和泉國和泉郡博多神社 官社 文徳実録、天安2年2月己丑、在河内国從五位下伯太彦、伯太姫神、並預官社、 神社覈録 |