竹ノ内街道の北、丘陵地帯の中に鎮座する小社。この地域はブドウの栽培が盛んであり、 ワインも作られている。神社はフドウ畑の一角に鎮座している。 創建の年代は詳ではないが奈良朝以前に飛鳥戸氏が祖神昆岐王を祀ったとする。その後長く「牛頭天皇」と称され、明治時代の神社制度制定に当たり祭神は牛頭天皇=素盞嗚命とした。 この地は百済系渡来氏族飛鳥戸造の本処地であり、神社周辺には「飛鳥千塚」と称される群集墳があり、それらは六世紀から七世紀前半にかけて築造された飛鳥戸氏一族の墳墓であると考えられている。 常林寺という神宮寺があり、行基の開基にして、聖武帝の勅願所といわれていた。 明治41年の合祀前には参道を隔てて現社地の反対側にあつたという。 |
由緒 当神社は延喜式内の古社にして古来飛鳥の産土の神として鎮座し、天王宮と稱せられて来ました。創建の年代は詳ではありませんが奈良朝以前に飛鳥戸氏が祖神KO伎王を祀るのに始められた説がありますが、明治時代の神社制度ご制定に当たり祭神は素盞嗚命を祀られました。三代実録(清和天皇貞觀元年8月15日河内国無位飛鳥戸の神を官社に格せられ、更に陽成天皇元慶4年8月29日飛鳥戸神社に神領田壱町を賜りて春秋の祭礼の費用に充てらるる伝々)とあります。明治初年村社に列せられましたが明治41年4月20日宮座の強要に依って壷井八幡宮に合併せられました。昭和27年再び分祀宗教法人法に依り法人として独立しました。 以上 (注)文中のKOは、「王」編に「昆」です。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
飛鳥戸神社 飛鳥戸神社は、飛鳥上の段の一角に鎮座する延喜式内の名神大社であり、雄略朝に渡来伝承をもつ百済系飛鳥戸造一族の祖神である「飛鳥大神(百済の混伎王)」を祭っている。平安時代初期には、子孫にあたる百済宿祢や御春朝臣たちの働きかけにより、貞観元年(859年)8月に無位から正4位下を授けられ、翌2年10月に「官社」に列し、元慶4年(880年〕8月には春秋の祭礼費として神領田1町が支給されている。 現在の本殿は、南面の一間社桧皮葺の流造りで、美しい姿を留めている。 社頭掲示板 |
飛鳥戸神社 竹内街道から飛鳥の集落に抜ける丘陵上にある神社です。古代の渡来系氏族、飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)が建立したと伝えられています。この神社は、平安時代の初めにまとめられた『延喜式(えんぎしき)』の中にのっている神社(式内社)で、その中でも特に格式の高い名神大社の称号をもった由緒ある古社です。祭神は百済の昆伎王(こんきおう)で飛鳥戸造の祖先にあたります。神社の周辺は、飛鳥千塚(あすかせんづか)と呼ばれる群集墳があり、飛鳥戸一族の墓地であると考えられています。 発掘調査で出土した副葬品(ふくそうひん)などから、当時の飛鳥戸氏の地位、文化の高さを知ることができます。また 大宝律令(たいほうりつりょう)が施行された後には、安宿郡(あすかべぐん)という地名が付けられており、飛鳥戸氏と深い地域であったことがわかります。祭礼は、毎年9月9日に行われています。 羽曳野市HP |
飛鳥戸神社 名神大月次新嘗 飛鳥戸は郡名に同じ、安須加倍と訓べし、○祭神百濟氏神其名詳ならず○今古市郡飛鳥村に在す、牛頭天王と称す、(河内国名所図会)、姓氏録、(河内國諸蕃)飛鳥部造、百濟國主比有王男混伎王之後也、また飛鳥戸造、百済國末多王之後也、また(右京諸蕃下)飛鳥戸造、百濟國比有王之後也、また(左京諸蕃下)飛鳥部、百濟國人、木吉志之後也、 神位 三代実録、貞観元年8月13日丙申、授河内國無位飛烏戸神正四位下、同2年10月15日辛卯、河内國正四位下飛鳥戸神、列於官社、 神田 三代実録、元慶4年8月29日庚戌、河内国飛鳥戸神社賜田一町、以充春秋祭礼之費、緑氏人主税助外從五位下百済宿根有雄、主殿権允正六位上御春朝臣有世等之請也、 氏人 続日本後紀、承和6年11月癸未、左京人正六位上御春宿根春長等十一人、改宿根賜朝臣、是百濟王之種、飛鳥戸等之後也、」三代実録、貞観4年7月28日乙未、左京人造兵司少令史正六位上飛鳥戸造根道賜姓百濟宿根、百濟國混伎之後也、』同5年8月17日丁丑、右京人外從五位下行主計助飛鳥戸造豊宗等男5女八人、賜姓御春朝臣、其先出自百濟国人混伎也、」同年10月11日庚午、右京人陰陽少属從六位上飛鳥戸造清貞、内鞭正六位上飛鳥戸造清生、太政官史生正八位下飛鳥戸造河生、河内國高安郡人主税大属正七位上飛烏戸造有雄等、並賜姓百済宿根、其先百済國人比有之後也、 神社覈録 |