杜本神社
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   【延喜式神名帳】杜本神社 二座(並名神大 月次/新嘗)河内国 安宿郡鎮座

   【現社名】杜本神社
   【住所】大阪府羽曳野市駒ケ谷64番地
       北緯34度32分44秒,東経135度37分33秒
   【祭神】経津主命 経津主姫命
       『神社明細帳』事代主命・経津主命
       『河内国式神私考』句々廼智命・氷谷坐彌豆波乃売神
       『河内志』山神・水神
       『地名辞典』『神祇志料』桓武天皇王子仲野親王の室・当宗氏の祖神
       『地理志料』当宗忌寸租神

   【例祭】10月8日 秋季例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】創立年代不詳
       仁寿3年(853)杜本祭始まる『諸社根元記』
       貞観元年(859)正月正四位下
       同7月14日遣使奉帛
       後醍醐天皇社領を寄せる
       天正年中織田信長高屋城を攻め兵災に罹り社殿焼失
       同14年(1586)秀吉に社領を没収せられて社頭衰微
       明治5年(1872)村社
       明治41年(1908)12月神饌幣帛料供進社

   【関係氏族】当宗忌寸・矢作連
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿流造唐破風
       拝殿・社務所・手水舎

   【境内社】若宮社・南木神社・天満宮・天照皇太神社・光国稲荷神社、光吉稲荷神社

「河内国安宿郡 杜本神社二座」の論社は羽曳野市と柏原市にそれぞれ1社ずつある。羽曳野市の杜本神社の方が有力な論社とされる。
近鉄駒ケ谷駅の東400mにあり、社頭を古道竹ノ内街道が通っている。
崇神天皇のころ香取明神十四世神孫伊波別命(いわわきのみこと)がこの地は祖神経津主神の陵墓のところであるとしてこの地に住み、神をおまつりされたのがこの杜本神社のはじまりとされる。 
延喜式にも「杜本当宗祭」と記され、古来当宗社と両社一祭会の如く扱われていた。
恐らくは当社の御祭神が当宗社と同じく、当宗忌寸の祖神を奉祀するものではないか。
本殿前には、「隼人石(はやといし)」といわれる珍しい人身獣面石像が左右一対に置かれている。


由緒

創建年代は不詳だが醍醐天皇延喜の制に式内名神大社に列し、祈年、月次、新嘗の案上幣帛に預かった有数の名社である文徳天皇仁寿3年内臧寮幣使によって杜本勅願祭を執り行われ、清和天皇貞観元年の正月甲申從五位下より正四位下に特進せられ、同7月丁夘良峯朝臣経を使いとして神宝を奉幣された。又、延喜の制と共に4月11月の上申の日を祭日と定められた内臧寮属一人を差しつかわされて幣帛と共に馬寮走馬十匹を賜った。一説によると十代崇神天皇の頃香取明神(経津主神)十四世神孫伊波別命が此の地の祖神をおまつりされたのが此の杜本神社のはじまりである。又後醍醐天皇の時代に社領を寄進されたが、天正10年間織田信長が高屋城を攻めた時、その兵火によって社殿、宝物を失い豊臣氏の頃、社領を没収され一時衰微した。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




杜本神社

式内大社 杜本神社略記
大阪府羽曳野市駒ケ谷
杜本神社々務所
御祭神 経津主神 経津主姫神 二座
御事歴
当社御祭神は表記の二神で昔から武勇の神で我国武将の始祖である天照大神この国土平定のとき、武功をたてられ、出雲の神々を帰順せしめて天孫降臨の基いを築かれた神であります
由緒沿革
創建年代は不祥だが醍醐天皇延喜の制に式内名神大社に列し祈年月次新嘗の案上幣帛に預つた有数の名社で、文徳天皇仁3三年内蔵寮幣使によつて杜本社勅願祭をとり行われ清和天皇貞観元年正月甲申従五位下より正四位下に特進せられ、同7月丁夘良峯朝臣経世を使として神宝奉幣された
又前記延喜の制と共に4月、11月の上申の日を祭日と定められ内蔵寮属一人を差しつかわして幣帛と共に馬寮走馬十匹を賜つた一説によると人皇十代崇神天皇のころ香取明神(経津主神の別名)十四世神孫伊波別命(いわわきのみこと)がこの地は祖神経津主神の陵墓のところであるとしてこの地に住み給い、祖神をおまつりされたのがこの杜本神社のはじまりであります
又後醍醐天皇時代に社領を寄進されたが天正年間織田信長が高屋城を攻めた時兵火によつて社殿宝物を失い、豊臣氏のころ社領を没収きれ一時衰微した
神仏習合時代に金剛輪寺が創建されて社僧によつて奉仕きれてきたが明治初年神仏分離によつて寺は廃寺となり、神社は村社に列し神饌幣帛料供進社に指定きれました
境内末宮
維日谷稚宮
御祭神 反正天皇(みずはわきのみこと)伊波別命、遠登売命 三柱
略記 仁徳天皇崩御のあと、皇位をめぐつて騒乱があつたとき、反正天皇が大和の国石上神宮に向われるに際し、この地に来られ道に迷われたときに一人の少女(遠登売命)に会い、その忠言に従つて、この地に一夜行在されて禊(みそぎ)された旧蹟地であります
明治42年頃まで駒ケ谷南三丁余、松林の中に祭祀されていたが当宮に移されたものである
大和の遠飛鳥に対し浪速の宮に近いことから「近飛鳥」といわれたところでもあります
此の時天皇は
あふさかにあふやをとめをみとえば
  たゞにはのらじたぎまじをのる
と歌ひ給ふ
南木神社
正一位橘朝臣楠正成公を祀る
創建年代不詳正行が父正成公の姿を刻みこの地に祭られたものと伝えられています
遺跡
大楠公首塚
正成公戦死された頃、乱世のため河内に送られて来た公の御首をひそかにこのところにかくして'敵の眼をのがれたという
隼人石
本殿前右左にあつて自然石の板石に獣面人身を刻んだもので、高さ約1m幅50cmの一対であります
藤原長手公の墓
奈良朝時代の人で聖武天皇の皇女、称徳天皇の時に左大臣に光仁天皇の時正一位左大臣となつた人で、死後大政大臣を贈られた今より約干二百年前の人であります
清少納言古塔
一條天皇六十六代に皇后に仕えて才学をみとめられた人で有名な枕草紙を著した人で後この塔を建立されたと伝えられている
社宝
後醍醐天皇御倫旨、後村上天皇御倫旨、長慶天皇御倫旨、後村上天皇寄附状、大楠公石碑建立依頼状(和田正遠筆)
大楠公祭修の首掛鏡、葺屋の荘三軸(楠正儀筆)
南木神社木額(正行公作)古劒、土鏡等
環境と交通
近鉄南大阪線駒ケ谷駅から東500mのところに鎮座、金剛葛城二上の連峰を望み、石川の清流を眼下に、約五千余坪の神域を有し、自燃の環境と森厳な風致によつてこの附近代表的な古社の面影をのこしている

由緒書



杜本神社

杜本神社は、宮山の上に鎮座する延喜式内の名神大社で、祭神は「経津主命・経津主姫命」の夫婦である。社伝によると、経津主命の14世の孫「伊波別命」に縁の一族が代々神社の管理にあたり、平安時代には、「矢作忌寸」と称したという。
当社は、金剛輪寺とあわせて神宮寺形式をとっていた。
また、現社殿は、江戸時代に高津神牡から移築したものである。

社頭掲示板



杜本神社

駒ヶ谷駅から東に約10分程歩いた宮山頂上付近にある神社です。現在の祭神は、経津主命(ふつぬしのみこと)・経津主姫命(ふつぬしのひめのみこと)とされていますが、平安初期には百済宿袮永継(くだらのすくねながつぐ)とその祖先の飛鳥戸氏(あすかべし)を祀(まつ)る神社であったようです。  藤原永継の子・冬嗣(ふゆつぐ)は、娘の順子と仁明(にんみょう)天皇との間にもうけた文徳(もんとく)天皇が即位すると、外祖父として宮廷の実権を握ります。そして、永継とその祖先神を祀っていた杜本神社は、大・小の官社(式内社)とその祭神を記した『延喜式(えんぎしき)』の名神大社として、宮中(きゅうちゅう)の月次祭(つきなみのまつり)や新嘗祭(にいなめさい)には朝廷の勅使(ちょくし)が派遣されました。  その後織田信長の高屋城(たかやじょう)攻めの兵火を受けて焼失しますが、江戸時代に金剛輪寺(こんごうりんじ)(宮寺)の住職・覚峰(かくほう)によって再興されて現在に至っています。祭礼は春が4月8日、秋が10月7・8日で、後醍醐(ごだいご)天皇・後村上(ごむらかみ)天皇の書状や人身獣面の隼人石などが残されています。

羽曳野市HP



由緒と沿革

御祭神
経津主神 経津主姫神 二座
貞観元年正月(約1048年前)
 正四位下に授り崇敬益々深まる。
醍醐天皇 延喜の制(約1106年前)
 式内名神大杜に列せられる。
延喜9年4月7日(約1090年前)
 朝廷より上申の日に幣帛と馬十匹を賜わる。
天慶5年4月8日 (約1064年前)
 杜本祭を定められ執り行われる。
天正年間
 織田信長の高屋城玖めにより社殿は焼失する。
大楠公御首塚
 正成公が戦死された頃は、乱世のため河内に送られて来た、公の御首をひそかに隠して敵の眼を逃れたと云う。
隼人石
 本殿左右にあって自然石の板名に獣面人身像を刻んだものである
藤原長手公の墓
 奈良朝時代の人で光仁天皇時、正一位左大臣になったひとである

社頭掲示板



歴史街道 杜本神社

 杜本神社は駒ヶ谷の宮山頂上近くに位置し、現在の祭神は経津主命、経津主姫命とされていますが、平安初期には百済宿祢永継とその祖先の飛鳥戸氏を祭る神社でした。永継の子・冬嗣は娘の順子と仁明天皇との間にもうけた文徳天皇が即位すると、外祖父として宮邸の実権を握ります。そして永継のその祖先を祭っていた。
 杜本神社は大小の官社(式内社)とその祭神記し平安時代前期の「延喜式」「神明帳」の名神大社をして、宮中の月次祭や新嘗祭には朝廷より勅使が派遣されました。
 織田信長の高屋城攻めの兵火を受けて焼失しますが、江戸時代に金剛輪寺(宝寺)の住職覚峰によって再興されて現在に至っています。
 例祭は春が4月8日、秋が10月7・8日で後醍醐天皇や後村天皇の書状、人身獣面の「隼人石」などが残されています。    羽曳野市

社頭掲示板



杜本神社二座 並名神大月次新嘗

杜本は毛里毛登と訓べし○祭神分明ならず○今古市郡駒谷村に在す、一座は山神、一座は水神と称す、(河内志、同名所図会)○式三、(臨時祭)名神祭二百八十五座、河内國杜本神社二座、○諸社根元記に、延喜9年7月官符云、以一療御馬牙供杜本当宗両社祭、(申日杜本、酉日当宗、)件社相去不遠、云々、若両社同躰歟、本縁不詳、
名所図会に駒ヶ谷金剛輸寺の上方にあり、温知随筆云、杜本祝部矢作忌寸口伝云、杜本神社、(二座)齋大人神、経津主命也云々、」金剛輪寺覚峰師云、人皇十代の頃、香取明神の神孫、十四世伊岐別命、此地にすませ給ひ、祖神経津主命をあがめ祭り給ふ、今の杜本神社といふは是なり、と云り、こは後に矢作忌寸が宮仕へしたりといふ説のあるにより、其氏神ならんと思へる僻説なるべし、元より蕃神の社などいへば、神威も劣れるやうに思へる中昔の時勢は、爰のみにあらず其数多し、
神位
三代實録、貞観元年正月27日甲申、奉授河内國從五位下杜本神正四位下、
官幣 神宝
三代実録、貞観元年7月14日丁卯、遣使諸社奉神宝幣帛、少納言兼侍從從五位下良峯朝臣経世為杜本社使、
連胤按るに、今度の使は多く氏人を遣されたり、抑姓氏録、(左京皇別上)良峯朝臣、從四位下良峯朝臣安世、是皇統彌照天皇(諡桓武)御子也、從七位下百濟宿根之継、爲女嬬而供奉所生也、とあれば、必外戚の因を以て、差定たる事と知られたり、是も藩神の一証也、

神社覈録



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