石川の支流梅川の中流左岸の台地上に在り、隣地大ケ塚の字名が示すように、この地は所謂一須賀古墳群の一角にあり、当社も亦、古墳上に祀られたものと考えられる。 この地は、蘇我氏の末裔「石川朝臣」が栄えた場所であり、河内源氏の末裔「石川源氏」の発祥の地でもあり、源平合戦の頃には、この地で「石川城合戦」が行われた。 また、南北朝時代には、南朝楠木方の「石川城」として、戦略上の要地であったため、再三にわたって兵火を受けた。 蘇我石川宿禰の後裔が、当地に祀先を齋祀したのが、当社の創始と考えられ、現祭神が祀られたのは、『大ケ塚由来記』が記す元禄5年(1692)の頃と察せられる。 |
由緒 本地はもと石川郡に属し、当地方は古くは石川氏の居所であった。当社の起源は詳らかではないが、恐らくは「渡会氏神名張考證」などにも説かれている様に、蘇我の本支族がその祖廟として、宗祖石川宿禰を祀ったものと思われる。延喜式内社に列し、一に天神とも云う。大日本史神祗志には「今俗伝市河明神」とし、河内名所図絵は、「一須賀神社は一須賀村にあり延喜式内今天神と称す、当村大ケ塚村の産土神也、宮寺に十一面観音を安置す」とある。これにより宮寺のあった事が窺われるが、盛衰は不明である。天正17年伊賀守より、境内免許の御証文を下され、後慶長13年片桐市正の検地の節、宮山の内、開作の地の分御竿入高一石三斗五升六合、先年の旨を以って、右の高免除され、天正17年豊臣秀吉、其の臣伊藤秀盛をして、当社の祈祷と境内免許の証を下された。その時祈祷のため伊藤秀盛の奉納した湯釜は今も社宝として保存している。 明治5年村社に列し、同40年9月19日大字東山字上条の村社菅原神社を、同年11月28日大字南大伴字宮の前の村社降旗神社を合祀した。老樫が境内をおおい、本殿は春日造りで桧皮葺きである。またこの地方は楠正成の時代に石川源氏の拠る所であって、この神域もその当時城塞の一部として利用されたようである。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
壱須何神社 御祭神 大己貴命 天照大神 天児屋根命 品陀和気命 当社の起源は明らかでないが、恐らくは「度会氏神名帳考証」などにも説かれているように、蘇我の本枝族がその祖廟として、宗祖石川宿禰を祭ったものと思われる。延喜式内社に列し、大日本神祇史には「今俗伝市河明神」とし、「河内名所図絵」は、「一須賀神社は一須賀村にあり、延喜式内今天神と称す。当村大ヶ塚村の産土神也」とある 天正17年豊臣秀吉、その臣石川郡代官伊藤加賀守秀盛をして当社の祈祷と境内免許の証を下された。その時奉納した湯釜は今も社宝として保存している。 社頭掲示板 |
一須何神社 由緒 当社の起源は詳らかではないが、恐らくは「渡会氏神名帳考証」などにも説かれているように、蘇我の本支族がその祖廟として、宗祖石河宿祢を祀ったものと思われる。延喜式内社に列し、大日本史神祇誌には「今俗云市河明神」とし、河内名所図会は、「一須賀神社は一須賀村にあり延喜式内今天神と称す、当村大ヶ塚村の産土神也」とある。 天正17年豊臣秀吉、その臣石川郡代官伊藤加賀守秀盛をして、当社の祈祷と境内免許の証を下された。その時奉納した湯釜は今も社宝として保存している。 明治5年村社に列し、同40年に大字東山の菅原神社、大字南大伴の降幡神社を合祀した、本殿は春日造りで絵皮葺きである。 又この地方は楠木正成の時代に石川源氏の処る所であって、この神域もその当時城塞の一部分として利用されたようである。 社頭掲示板 |
壹須何神社 壹須何は假字也○祭神詳ならず○一須賀村に在す、今天神と称す(河内名所図会) 神社覈録 |