美具久留御魂神社
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   【延喜式神名帳】美具久留御玉神社 河内国 石川郡鎮座

   【現社名】美具久留御魂神社
   【住所】大阪府富田林市宮町3-2053
       北緯34度31分5秒,東経135度36分5秒
   【祭神】美具久留御魂大神 (配祀)天水分神 国水分神 水波廼米神 須勢理姫神
   【例祭】10月第3金曜日 秋季大祭
   【社格】旧府社
   【由緒】崇神天皇(人皇第十代)の十年創祀
       嘉祥3年(850)従五位上
       天正13年(1585)豊臣秀吉の根来寺攻めの兵火により社殿を焼失        万治3年(1660)社殿再建
       明治5年(1872)郷社
       明治40年(1907)1月神饌幣帛料供進社
       大正2年(1913)府社

   【関係氏族】神職青谷氏の遠祖、社司青箭有禰に賜烟のこと古代にあり
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】下水分神社等別称の多い神社である
       折方宮/下折方宮/綾池連備宮/大国宮/金毘羅宮/佐美陀礼宮
       支子宮/支子荒魂宮/和迩宮/西条宮/羽曳宮/香折岡宮/旭岡宮
       貴志宮/伎志宮/下水分宮/中水分宮

   【社殿】本殿流造
       神輿庫・拝殿・下拝殿・社務所

   【境内社】皇大神社・熊野神社・貴平神社・青箭宮・南木宮
       白雲宮・郡天神社・利雁神社・愛宕神社・大伴神社・紫天神社
       富榮神社・旭岡神社・稻荷神社


羽曳野丘陵東斜面山麓旭岡に坐し、後背部丘陵一帯は現在PL教団の本処地となつている。
千早赤坂村の建水分神社を上水分神社というのにたいして下水分神社と称する。また恩地神社を下水分と呼ぶ向きもあり、この場合には中水分となる。和爾池の側だから和爾社とも云われた。
 神宝は生太刀・生弓矢とされる。『略記』によれば、生太刀は出雲大社の神剣で、これを当社祭神の大国主神の御神体とすべく崇神天皇が出雲振根に使いを遣わし、弟の飯入根が献上、後で知った振根が弟を殺した物語が『崇神紀』に詳しいが、出雲大社に代わって当社が祀るようになったと云う。
本殿の背後の宮裏山古墳は古来神奈備山とよばれる神体山である。
南朝の忠臣楠木氏の崇敬も殊に深く、本社殿・宮門・玉垣などは、楠木正成の建営になると伝えられている。
また、南朝の皇孫尊秀王以後歴代は、当神宮寺金藏院に身をよせて、ひそかに回天の時運を待たれたが、忠尊王薨去の後は遂に南朝のあとをたたれた。
神宮寺は紀州根來寺に属して室町末期には11坊を擁して隆盛したが、後に織田信長が根來寺を焼亡するに及び、本末の関係にある当宮寺にも累を及ぼし、寺領を没収され、神領も失われたが、豊臣秀吉は社殿を修復し、其の子秀頼及び徳川家光もまた修繕を加えて、明治に至つた。


由緒

崇神天皇(人皇第十代)の十年、この地に五彩の巨蛇が現われて農民を悩ませたので天皇は親しく妖蛇の巣窟を見られ「これ大国主神の荒御魂の荒ぶなり。宜しく祀るべし」と仰せられてまつらしめられた。
その後同天皇の六十年丹波の国氷上の人氷香戸辺の小児に、
「玉MONO鎮石出雲人祭真種之甘美鏡押羽振甘美御神底宝御宝主山河之水泳御魂静挂甘美御神底宝御宝主也」
(たまものしずしいずもひとのいのりまつるまたねのうましかがみおしはふるうましみかみそこたからみたからぬしやまがわのみくくるみたましずかかるうましみかみそこからみたからぬし)
という神託があった。天皇はそれをお聞きになって、皇太子活目命(いくめのみこと)をつかわし(日本書紀)河内国支子に祭らせ、美具久留御魂神社と御名を称えまつられたのである。
(注)文中のMONOは、「クサ」冠に「意」です。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




美具久留御魂神社

当社は大国主命を主神とし、左に天水分神・弥都波廼売命、右に国水分神・須勢理比売命を祭る。
社伝によれは、第10代崇神天皇の10年、支子の森からしばしば大蛇が現れて農民を悩ました、天皇は自ら視察して「こは大国主命の荒御魂の荒ぶなり宜しく祭るべし」と言ったという。ところが同62年、丹液の国氷上都の氷番戸辺という者の子供が神がかりして「玉葉鎮石出雲人祭真種之甘美鏡押羽振甘美御神底宝御宝主山河之水泳御魂静桂甘美御神底宝御宝主也」という神託があり(日本書紀)、天皇は直ちに皇太子活目尊を遺わして当社を祭らせたといわれている。
以後歴代天皇の崇敬厚く、中でも文徳天皇は嘉祥3(850)年に神階従五位上を特授し、延喜式には五川郡九社のうちに列記された。また河内二の宮・石川郡総社とも称された。楠正成は上水分社と共に当下水分社を崇敬し、神領寄進や社殿造営を行っている。一方、平安末頃から神宮寺が神域に建立され、一度は兵火に遭いながらも復輿し、室町末には下之坊をはじめとして11坊を擁する神仏の霊地となっていたが、天正13(1585)年に、旦臣秀吉の根来寺攻めの兵火に焼かれ、神宮寺は再び建つことはなかった。万治3(1660)年に、75年ぶりに社殿の造営がなり社頭はほほ旧に復した。その後200年間は僅かに民間の信仰によって社頭を支えていたが、明治時代に入り、近郷五箇町村の氏神として郷社に列せられ、現在に至っている。

社頭掲示板



美具久留御魂神社

崇神天皇(人皇第十代)の時代、、この地に大蛇が多く出没し農民を悩ましたので、天皇は、『これは大国主神の荒御魂の荒ぶなり。よろしく祀るべし』とおっしゃった。その頃丹波の国の氷香戸辺(ひかとべ)の子に、『玉藻鎮石。出雲人祭、真種之甘美鏡。押羽振、甘美御神、底宝御宝主。山河之水泳御魂。静挂甘美御神、底宝御宝主也。』(日本書紀第五巻崇神紀六十年條・出雲国風土記)という神様のお告げがあり、天皇はそれをお聞きになって、活目入彦命(垂仁天皇)を河内国支子(きし)に遣わし当社を祀らせ、美具久留御魂神社と御名を称えなさった。
このお告げは『出雲大神は大国主命であり、大国主命は山河を泳ぎ渡ってきた和爾神(龍神)であり、水泳御魂大神(みくくるみたまおおかみ)である』と美具久留御魂大神の御神体を明らかにされたのである。
当神社は歴代天皇からの崇敬厚く、文徳天皇の嘉祥3年(850)には神階を従五位上に進められ(文徳実録)、光孝天皇は河内大社の勅額を奉納された。また延喜式には官幣に列せられ当国二の宮石川郡の総社とも称せられた。
南北朝時代には南朝歴代のご信仰も厚く、また楠木氏は上水分社(建水分神社・千早赤阪村鎮座)と共に、当神社を下水分社と称し氏神として信仰したので、戦乱の間にも朝廷は、神社にしばしば参拝されたり、社殿を造営しなさって治世の安泰をお祈りなさった。
平安時代(1000年頃)正東山という神宮寺が建てられ、隆盛に向かった。鎌倉時代末、鎌倉方が赤坂城を攻めたとき、西条城(喜志)と共に、焼き払われたが、間もなく再建され天正の頃には十七坊に及び香をたく煙が漂い、儒教の経典を読む声が神山にこだまする一大霊地となっていた。
天正13年(1585)豊臣秀吉の根来攻めの兵火を浴び再び灰燼に帰した。以後数十年間は復興されなかったが、万治元年(1658)から復興がはじまり、同3年にはほぼ元通りの姿を取り戻した。
明治に入って、氏神を合祀し、厄難消除や縁結びのご神徳、またすべての生業の守護神として信仰を集め、今日に至っている。
平成6年、氏神崇敬者の篤志により、本殿・摂末社および拝殿・社務所等の大改築がなされ、同8年完成する。

由緒書



美具久留御魂神社

近鉄喜志駅から南西方向、およそ700メートル、標高約103メートルの羽曳野丘陵の東斜面中腹に「美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)」があります。
 この神社は『延喜式』に河内国石川郡九座として列挙された1つで、別名和爾(わに)神社といい、千早赤阪村の建水分(たけみくまり)神社を上水分神社と称するのに対して、下水分神社とも呼ばれてきました。
 和爾宮の社名は、文徳天皇実録の嘉祥3年(西暦850年)の12月の条に「河内国和爾神の階を進め、従五位上を加う」とあり、この神社の古さがうかがえます。
 祭神は本殿五座、中央に美具久留御魂神(大国主命)、左に天水分神(あめのみくまりのかみ)、弥都波廼売命(みずはのめのみこと)、右に国水分神(くにのみくまりのかみ)、須勢理比神(すせりひめのみこと)をまつっています。
 社伝によると崇神天皇10年に五彩の大蛇が現れ、百姓が大いに恐れたため、天皇が「これ大国主神(おおくにぬしのかみ)の荒御魂(あらみたま)の荒(すさ)ぶるところなり宜しくまつるべし」との仰せにより、社殿を創建したといわれています。
 同神社は朝廷との関係が古くからあり、神位や田地がしばしば寄進され、現在では周囲の人々から土地の守り神として崇められています。
 拝殿には多くの絵馬がかけられ、その中に縦98センチ、横189センチある全国的にも珍しい江戸時代に友好親善使節として李氏朝鮮から日本へ派遣された朝鮮通信史の船旅の様子を描いた絵馬があり、当時、朝鮮通信史の評判が広く庶民の間にいきわたったことを示す貴重な資料となっています。
 祭祀の主な行事として、3月1日に祈年祭、4月15日に春季大祭、7月15日に夏期大祭、そして今年は10月の21日、22日に秋祭りが行われ、子どもみこしのお渡りや、大小あわせて12台前後の地車(だんじり)の宮入りが行われ、多くの人で格別のにぎわいをみせます。

富田林市HP



郷社 美具久留御魂神社

祭神 大國主神
相殿 天水分神 國水分神 罔象女神 須勢理比売神
崇神天皇御宇天下飢疫の際勅命によりて創祀し、同天皇73年初めて官祭を行はるといふ、(社記)本社御神体は御木像、相殿は御鏡とす、文徳天皇嘉祥3年12月従五位上を授け給ひ、(文徳実録)醍醐天皇延喜の制式の小社に列す、石川郡九座の一なり、(延喜式)降つて後醍醐天皇元弘元年此地兵乱の巷となり、社殿、文書等残らす兵火にかゝりしかば、楠正成に勅命ありて、延元年中再建ありて神領六百二十石を寄進せらる、(社記)明冶6年郷社に列す、境内1167坪(官有地第一種)社殿は本殿、幣殿其他神饌所、神輿庫等の建物を備へ、高燥なる羽曳山脈の中央に位置し、東に佐保平野和爾池を拍へて金剛葛城の諸山に対し、風光頗る掬すべし、此地一名桜ケ岡と称し、楓桜多く、期節には賓客織るが如し、因にいふ、文徳実録に「嘉祥3年11月癸酉進河内国和爾神階加從五位上」とあるを、河内志に当社に充てたれどいかがあらん、猶考ふべし。

明治神社誌料



美久具留御玉神社

美久具留は假字也、御玉は美多麻と訓べし、〇祭神水分神、(考証)〇喜志村和爾池西(日本紀、仁徳天皇13年10月造和爾池、築横野堤)に在す、一名和爾神社、今下水分祠と称す、(河内志、同名所図会)、例祭6月15日、11月15日、○日本紀、崇神天皇60年、丹波氷上人、名氷香戸辺、啓于皇太子活目尊曰、己子有小児、而自然言之、山河之水泳御魂、云々、是非似小児之言、若有託言乎、於是、皇太子湊于天皇、則勅之使祭、
連胤按るに、崇神紀の文に見ゆる処の、水泳御魂を祭らしめ給ふを、此社とは定めがたけれど、何れにまれ、此霊の鎭坐し給ふは決し、さてはひろく水分神と称すも当れりといふべし、故に祭神の説考証に從へり、抑当国及び大和和泉は、昔より今に至りて、池を堀水を湛て公田を養へり、この故に水分神霊等の祈年祭に預らしむる社多し、
神位
文徳実録、嘉祥3年12月癸酉、進河内國和爾神階加從五位上、
此神位、祭事記には、式外別社とす、今河内志、同名所図会等に拠て当社に附す、

神社覈録



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