金剛山道と富田林街道の合流点に近い水越川の南岸尾根の中腹に鎮座する。 上水分神社と言われ、式内美具久留御魂神社が下水分神社と称するのに対応した呼び方である。崇神天皇5年、天下饑疫の際勅して創建されたとされる。 水分神社は大和盆地の東西南北に四座とここだけである。元の社地はここより東500mほどの所にあったが南北朝の争いの中で兵火にかかり、楠木正成が現在地に社殿を再建したという。 織田信長の時に社領二百五十貫を没収せられる悲運に会い、社頭は一時衰えたが、秀吉の代となつて、その崇敬するところとなり、田畑の寄進をうけて旧に復するを得た。 摂社南木神社は、楠正成の木像を御神体とする。 春日造りの本殿と流れ造りの左右両殿を渡廊で連結する水分式建築で、国の重要文化財である。 |
由緒 楠木家の氏神で創立古く、人皇第十代崇神天皇の五年天下饑疫(きえき)の際勅して、金剛葛城の山麓に水神を祭られた。後醍醐天皇の勅令に依って楠木正成が水越川のほとりの下宮にあった社を移して再建したもので、本殿は三殿より成り、中殿は春日造り天御中主を祀り、左右両殿は流造で水分神を祀る。三殿は渡り廊下で連なり、その構造功緻で建築学上模範である。神社建築としては、全国で唯一の形式で明治33年国宝に、昭和25年に重要文化財に指定された。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
本殿 建築の様式から判断すれば、その建立を吉野時代前半において支障ない。中古の修理のことは不明であるが、明治36年に国庫の補助を得て解体修理をうけ、昭和25年に屋根葺替をおこなっている。 ほほ西面する三殿からなり、中殿は一間社春日造、左右両殿は二間社流造桧皮葺で、各殿の間には渡廊の形式を取った障壁をつけている。中殿主屋円柱、向拝面取角柱。斗?三斗、螻羽を支えるには木鼻を利用して連三斗を出し、木鼻上には皿斗付の斗をすえており、主屋正面と向拝中備に蟇股をおく、棟は虹梁上に叉首を組み、大斗肘木をおいて棟木をうける。また主屋柱と向拝をつなぐには、主屋柱頭から向拝斗?上に海老虹梁を渡している。軒は二軒繁種。破風、猪目懸魚、向拝破風、兎毛通しつけ、屋根は桧皮葺で箱棟端鬼板をつけ、置千木おぎ、堅魚木二本をのせる。主屋側面および正面には縁をめぐらし、正面に木階五級をおき、浜床を設け、擬宝球柱つき勾欄をめぐらす。主屋軸部には縁長押、内法長押をつけ、内部を二分し、前後部の境には、上下長押、幣軸付の板扉を両開きにし、幣軸脇と両端に円柱形をそなえた、両袖に壁を作り、小組格天井を張り、前面の柱間には敷鴨居をいれて、吹寄せ格子戸四本をたて、鴨居と内法長押の間隙には竹の節を入れて、これを三分し、唐草文様の彫刻入勾欄をはめる。 左右両殿は対称的に作られ、彫刻のモチーフを異にする程度で、厳密に同様式にされている。細部の手法は中殿と同一であるが、向拝では中央の柱をおかず、二間持ち離しとし、中間に斗?のみ備え、主屋の正面中備には蟇股をおかず、向拝の中備にのみ蟇股をすえ、二間社の境の柱位には向拝の繋虹梁を用いず、主屋柱上には木鼻をつけ、向拝斗@には手挾を入れている。屋根棟のとりあつかいも同様であるが、棟が長くなるので、堅魚木が三本になっている。 また中殿との間には渡廊を配するが、その反対側では背面隅柱位置に脇障子をつけ、竹の節をのせている。渡廊は左右殿の縁と同じ高さに床を設け、縁束上に柱を立て、柱間に勾欄を渡しているが、中殿の縁が框一段高くなっているので、登り勾欄となっている。背面では中殿と東西殿の縁束上の柱関を三分し柱を立て、上端に横連子をいれる他板張とし、前後の桁を棟木を通して、茨付の輪種を吹寄せにして、疎にくばり唐破風形の桧皮葺屋根を作る。 この社殿は和様の伝統的な手法をかなりよく伝えて、高雅な意匠をみるのであるが、すでに向拝の頭貫を唐様風な袖切、欠眉、錫杖彫つぎの虹梁形とし、両端に若葉つきの渦巻までつけられ、その先の木鼻を平面的なあつかいながら象鼻とし、主屋との間をつなぐ繋虹梁に海老虹梁が出現し、主屋では頭貫端に木鼻、斗@に桧様付実肘木が用いられ、また各慕股内には平板なものながら、非対称的な彫刻をいれ、向拝では正背面とのモチーフを変えるなど、かなり自由な手法が現われており、左右殿向拝の中柱を用いないで大きい開口とするような大胆なとりあつかいもみられ、繁雑さは伴わないが、あらゆる技法を巧にあやつっている達者さがうかがわれ、渡廊の着想も清新で、垢ぬけしている。材料はかなり新材に代ってはいるが、破風懸魚などを除けば、大体よく旧形式を伝えているようである。しかし、中殿主屋の蟇股上実肘木は明らかに後補である。しかし中殿主屋の芸股の肩につけられた若葉形は一本で出来ていて、後の付加とはみられない、他に余り例のないものである。 @は木+共 『大阪府の文化財』(昭和37年3月大阪府教育委員会刊行) |
建水分神社 重要文化財 延喜(905年、延喜5年に醍醐天皇の勅により選進)式神名帳に記されている神社を式内社といい、当神社は河内国石川郡内式社9社のひとつである。 崇神天皇の5年「天下饑疫の際、勅して創建せらる」と有り、池・溝を設けて農事を勧められ、金剛・葛城のふもとに水の神を祀ったとおもわれる。 楠木家は累代この地に居住し、当神社の祭神建水分大神は楠木家の氏神として崇敬篤く、後醍醐天皇の勅命で正成が水越川のほとりの下宮にあった社をここに再建した。 本殿は春日造りの中殿(天御中主)、流れ造りの左殿、右殿(水分神)の三殿より成り、三殿が渡り廊下で連結されている。建築学上、その構造、精緻さなどから命じ33年に国宝に指定され、現在は重要文化財に指定されている。地元では水分神社と呼ばれ親しまれている。 社頭掲示板 |
建水分神社 御祭神 (中殿)天御中主神 (宇宙根源の元始神で天地創造と万物生成の神) (左殿)天水分神 (天の水を施し分配する神) (右殿)国水分神 (地の水を施し分配する神) 御由緒 創建は第10代・崇神天皇5年(前92)で、同天皇の御宇添加飢疫にみまわれ百姓農事を怠った時、諸国に池・溝を穿ち農事を勧められ、この時勅して金剛葛城の山麓に水神として奉祀せられた。延長5年(927)修選の「延喜式神名帳」に「建水分神社」と記載の式内社である。また延喜元年(901)撰上の「日本三大実録」には叙位累進の記録がみえる。 世々皇室の御崇敬極めて篤く、第96代後醍醐天皇の御代に至り、建武元年(1334)楠木正成公に勅して、元は山下の水越川の畔にあった社殿を現地山上に遷し、本殿・拝殿・鐘楼等を再営させられ、延元2年(1337)神階正一位の極位を給うた。 当社は霊峰金剛山の総鎮守で、古来より付近十八ヶ村の産土神であると共に、累代此の地を本地とした楠木氏の氏神でもある。正成公は勅を奉じ征賊の軍を起こすに当たり、祈念篤く「久方の天津朝廷の安かれと祈るは国の水分の神」と詠まれた。 ときに織田信長は河内国攻略に際し、当社領を悉く没収し社頭は一時衰退したが、豊臣秀吉は再び田地を祈祷料として寄進し、深く崇敬するところとなり、旧に復するを得た。 なお大鳥居の「正一位 水分大明神」の額は、後醍醐天皇宸筆と伝えられ、正成公の嫡男である正行公が奉納された木額(宝物)の表面が摩滅した為、宝永2年(1705)前大納言葉室(藤原)頼孝卿がその聖筆をなぞり、金銅製にて模造したものである。 明治6年付近十八ヶ村の総鎮守産土神の故を以て郷社に列し、明治40年神饌幣帛料拱進社に指定せられ、氏子区域内17の神社を合祀し、大正2年府社に昇格した。 また正成公再営の本殿は三殿からなり、水分造とも称される。中殿に一間社春日造、左右両殿に二間社流造を配し、各殿を渡廊で連結するという全国でも他に例を見ない様式である。 構造の細部も優秀巧緻で建築上の模範であり、明治33年に大阪府の神社建築として初めて特別保護建造物(国宝)に指定され、昭和25年には重要文化財の指定を受けた。(非公開) 摂社の南木神社は楠木正成公を祀る。延元元年(1336)正成公が湊川で戦死されると後醍醐天皇その悼惜限りなく、翌2年(1337)御親らその像を刻ませ給い、公と縁故深き当社境内に祀り、その誠忠を無窮に伝えしめ給うた。さらに次代の後村上天皇より「南木明神」の神号を賜った。元禄10年(1697)領主の石川総茂も正成公を尊崇し、頻頽した南木神社社殿を再建した。しかしこの社殿も昭和9年の大風害(室戸台風)により老木倒れて倒壊し、現社殿は昭和15年官弊社建築に準じて設計再造営されたものである。 末社の金峰神社は本社社殿の北脇に鎮座し、由緒創建は詳らかでないが、皇室の御祖神であり、日本人の総氏神でもある伊勢の神宮の御祭神、天照大御神を奉齋する。 また当社紋の菊水は楠木氏の家紋としても世に知られ、その名の如く上半分が菊、下半分が水の流れを表す。紋様の由来には諸説あるが一説に、皇室の御紋である菊は後醍醐天皇より正成のその忠誠に対し下賜され、水流は楠木氏が氏神とした当社が水の分配を司る水神である為とされる。 社頭掲示板 |
建水分神社 創建は第10代崇神天皇5年(西暦前92)で、同天皇が天下饑疫にみまわれ、人民が農事を怠った時、諸国に池溝を穿ち農事を勧められ、この時勅して金剛葛城の山麓に水神として奉祀せられた。 延長5年(927)修撰の『延喜式−神名帳−』に「建水分神社」と記載(河内國・石川郡・官幣・小社)の式内社である。また延喜元年(901)撰上の『日本三代実録』には貞観5年(863)正五位下、貞観16年(874)従四位下、元慶3年(879)従四位上が朝廷から授けられるという叙位累進の昇叙記録が見える。 世々皇室の御崇敬極めて篤く、第96代後醍醐天皇の御代に至り、建武元年(1334)楠木正成公に勅して、元は山下にあった社殿を現地山上に遷し、本殿、拝殿、鐘楼等を再営させられ、延元2年(1337)神階正一位の極位を授け賜った。 当社は霊峰金剛山の総鎮守で、古来より付近十八ケ村の産土神であると共に、累代此地を本拠とした楠木氏の氏神でもある。正成公は勅を奉じ征賊の軍を起こすに当たり、当社への祈念厚く、 「久方の天津朝廷(あまつみかど)の安かれと 祈るは國の水分の神」 と詠まれ、公の純忠のいかばかり神助を仰がれたかが推察される。 中世には、織田信長が河内国攻略に際し、当社領を悉く没収し、境内も焼討ちの被害に遭い、社頭は一時衰退した。しかしながら、豊臣秀吉は再び田地を祈祷料として寄進し、深く崇敬するところとなり、次第に旧に復するを得た。 尚、大鳥居の「正一位 水分大明神」の扁額(社号参照)は、楠木正行公(正成公嫡子)奉納の木額の表面(伝・後醍醐天皇宸筆)が摩滅した為、宝永2年(1705)、金銅製にて模造したもので、文字は時の前大納言・葉室(藤原)頼孝卿の筆によるものである。 明治6年、付近十八ケ村の総鎮守・産土神の故を以て郷社に列し、明治40年、神饌幣帛共進社に指定せられ、氏子区域内十七の神社を合祀し、大正2年、府社に昇格した。 又、戦前教育において、楠木正成公は史上随一の忠臣であり、日本国民の模範的人物とされた。然るに公を崇拝し敬愛する多くの人々が、楠木氏の氏神であり、公を御祭神とする摂社・南木神社を祀る当社に参詣した。 さらに前の大戦中、幾多の海戦に参戦し、最も活躍した軍艦の一つに数えられる戦艦『金剛』には、当社が古来より金剛山鎮守として崇敬されてきた所以により、その艦内に建水分大神の御分霊が勧請され、奉祀されていた。 『金剛』は、その戦歴から「鬼の金剛」と称され、大阪港へ寄港の際には、艦長以下、乗組員が艦の守護神とされた当社へ参拝することが慣例となっていた。 尚、境内社として、前述の摂社・南木神社のほか、本社拝殿北脇に末社・金峰神社を祀る。 昭和10年に大楠公600年祭、同60年に大楠公650年祭を斎行し、平成20年には、本社の御創祀2100年を迎える事となる。 公式HP |
水分神社 みくまりじんじや 水分神は、流水を司る神である。「クマリ」は「配り」を意味する。この神は、速秋津日子・速秋津比売二神の御子神とされ、天之水分神と国之水分神の二柱がある。この水分神を奉斎する神社が、水分神社で、『延喜式神名帳』を見ると、大和国に葛木水分神社、吉野水分神社、宇太水分神社、都祁水分神社の四社、河内国に建水分神社、摂津国に天水分豊浦命神社の名が見えている。また『続日本紀』に「吉野水分峯ノ神」、『三代実録』に「安芸国水分天神」とあることから、わが國において、古くより各地に、水分神を奉斎した神社が少なくなかったといえよう。 『延喜式』収載の祈年祭及び六月の月次祭祝詞に「水分に坐す皇神等の前に白さく、吉野・宇陀・都祁。葛木と御名は白して辞竟へまつらば云々」とあり、朝廷により、豊稔を祈請されていたことがわかる。後世、「クマリ」が詑って「コモリ」ともいわれ、子守明神としての信仰をも生むに至った。 ▼建水分神社 大阪府南河内部千早赤坂村水分、旧府社。延喜式内社。天御中主神・大水分神・罔象女神・国水分神・瀬織津姫神を祀る。崇神天皇5年の鎮座という。元慶3年(879)従四位上。例祭4月25日。 神社辞典 |
郷社 建水分神社 郷社 建水分神社 祭神 天水分神 國水分神 天御中主神 瀬織津姫神 崇神天皇5年天下飢疫あり、当社を創立して之を祈ると伝ふ、(社記)清和天皇貞観5年8月壬戌從五位上建水分神に正五位下を授け、同16年3月癸酉從四位下を賜ひ、陽成天皇元慶3年壬子從四位上に叙せられたる事三代実録に見え、醍醐天皇延喜の制式の小社に列し、官幣に預かれり、(延喜式)、其後天下の名社に階を加へらるる毎に当社も亦之に預り、後醍醐天皇延元年間には正一位に進まれだり、其は本社の額に正一位建水分神社、背面記に「延元2年丁丑4月27日勅授。位記、5年庚辰4月8日左衛門尉楠正成書」とあるによりて知るべし(河内志、河内名所図会等に拠る)明治6年社格制定の時、此地の産土神たる故を以て郷社に列す、杜殿は本殿二棟、及拝殿を具備し、本殿は後醍醐天皇捕正成に勅して再営せられたるものにして、明治32年特別保護建造物の指定となり、38年保存費の補助を得て修復を加へたる精巧異彩ある古建築なり、境内6210余坪、(官有地第一種)正行の幼時其産神として朝夕此に遊びたりと伝へられ、樹木鬱蒼として幽邃の趣深く、亀井閼伽井の二泉清冽掬すべし、明治40年10月村社立岩神社(祭神天照皇大神、品陀別命、天児屋根命)を合併せり。 境内神社 南木神社(楠正成を祭る、後醍醐天皇卿の死を悼み給ひ、悼惜禁じ能はざるものありて、親ら卿の橡を剣みて祭り給へりと伝ふ、(由緒記に拠る) 明治神社誌料 |
建水分神社 建水分は多氣美久麻理と訓べし○祭神明か也○水分村に在す、(河内志、同名所図会)、例祭9月15日、 類社 大和国吉野郡吉野水分神社の條見合すべし 神位 三代実録、貞観5年8月2日壬戊、授河内国從五位上建水分神正五位下、同16年3月14日癸酉、授河内國正五位上建水分神從四位下、元慶3年9月25日壬子、授河内国従四位下建水分神從四位上、』額背面記、延元2年4月27日、勅授位記、(表題云、正一位建水分神社)5年4月8日、左衛門少尉楠正行書、 神社覈録 |