蘇我倉山田石川麻呂の本貫地である山田村の東端の高みにあり、北西600mに孝徳天皇陵、西800mに推古天皇陵があり、社頭の丘上に小野妹子の墳墓がある。王陵の谷といわれる一角に鎮座する。 当地は河内・大和両国の境に近く、山田谷から竹ノ内峠への谷が、二上山と葛城山との峡になり、風の道に当る故に、風神が祀られたのは、古代信仰上、当然のことで、この神の祭祀の古さを示すものであろう。 末社恵比須神社、一名土祖神社の祭神を息長宿禰、高額姫命だとすれば、この二神が土着神だとも考えられ、この地に創建された神社と思われる。 社伝によれば、科長神社はもと二上山上に祀られていて、二上権現と称したが、四條天皇の暦仁元年(1238)に、現地へ遷座することとなり、恵比須神社は末社とされるに至つたという。 一説には元禄以前は二上山上とも言う。 『式内社調査報告』は「考えるに、当社は、級長戸辺命(級長津彦命)を祀る古社として発祥し、級長(しな)がシナガと訓ぜられ、磯長という地名を生み、磯長から息長が導き出されて、神功皇后御降誕地伝説を生むに至つたのではあるまいか。また、藤原頼孝が、二上権現を遷座させた時に、藤原の祖先神(天児屋根命・武甕槌命・経津主命)を勧請し、科長神社なる旧社名を抑へて、八社大明神の神号を称えさせたのであろらう。」としている。 当地は神功皇后誕生地と伝えられ、社宝として神功皇后雛形の兜がある。 |
由緒 創建の年代は不明だが延喜式第九に石川郡九座の一つ科長神社とでている。 神社正面の石鳥居には八社大明神と書かれた銅の額が揚げられており書体は鳩文字にて元録十五年葉室大納言藤原頼孝の筆にて八社大明神と書かれている。これは当社が八柱の神々を祭っている事でこう呼ばれ八社宮と書かれた石灯籠も寄進されている。明治四十年科長岡神社・素盞鳴神社を合祀して現在は十八柱の神々を祭る。 当地は神功皇后誕生地と伝えられ、社宝として神功皇后雛形の兜がある。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
科長神社 古い歴史をもつ式内社で、級長津彦命(しなつひこのみこと)・級長津姫命(しなつひめのみこと)をはじめ、八神がまつられています。神社の後には八精水という霊水が湧きだしており、この水で当麻鍛冶が刀剣を鍛えたと伝えられています。毎年7月の第4日曜日に例祭が行われ、地車や神輿がでて参詣者でにぎわいます。。 社頭掲示板 |
郷社 科長神社 祭神 級長津彦命 級長戸邊命 天照大御神 素戔鳴命 天児屋根命 武甕槌命 経津主命 建御名方命 誉田別命 日本武尊 創祀の年代詳ならす、醍醐天皇延喜の制式の小社に列す、(延喜式)俗に二上権現と称す、現社地の北五六町なる山峯に鎮祀せしを、後光明天皇慶安元年現地に遷し、八社明神と称す、山上社の旧跡には同蛭子祠あり、(河内名所圖會)此社地にもと土祖神社と称する社ありて、神功皇后の御両親を祀りしが、社遷座の際末社となり、何時か恵美須神社と称せらるゝに至りしといふ、(杜記)其後の沿革伝はらす、山田、畑、葉室等の産土神たり、明治6年郷社に列す、境内1952坪(官有地第一種)。社殿は本殿、拝殿其他神樂殿、燈明所等を備へ、地は旧来神功皇后の御降誕地と伝へられ、渓流あり廻りて池をなし八精水といふ、当麻の鍛冶の鍛に用いしものなりといふ、今用いて手洗水とす、清例掬すべし、古松老杉昼猶暗く、神門を入りて社前に進めば老檜二樹並び聾え、転神氣の爽を覚ゆ、宝物にば神功皇后雛形兜一個寄進者不詳、昔より土祖神社に在りきといふ、八社大明神の掛物一巻、元録14年5月前権大納言正二位葉室頼孝卿の自筆寄進にかゝる。 明治神社誌料 |
科長神社 科長は志奈賀と訓べし○祭神詳ならず〇山田村に在す、今八社明神と称す、(河内志)○式廿一、(諸陵)磯長中尾陵(敏達天皇)磯長原陵(用明天皇)磯長山田陵(推古天皇)大坂磯長陵(孝徳天皇) 名所図会に山田村東條にあり、原は二上権現と称して山峰にあり、古跡に蛭子祠を鎮坐すと云り、 社頭掲示板 |