嶽山東南中腹、竜泉寺の北側に南面して鎮座する。古来龍泉寺の鎮守として、牛頭天王とも呼ばれていた。 創建年月は不明であるが、牛頭山龍泉寺に伝わる弘法大師の同寺再興の伝説を採り、弘仁14年(823)正月の創立として称している。 この辺り一帯は古代の「紺口県(こむくのあがた)」でその紺口県主がその氏祖を祀ったと思われる。 竜泉寺は南朝方の拠点となって兵火にさらされその後戦国時代にも嶽山合戦等で兵火を受けた。 明治の神仏分離により、牛頭天王を祀る鎮守社が龍泉寺より分けられ、式内・咸古神社に比定され、祭神を神八井耳尊に改めた。 明治42年成古佐備神社を合併するに際し、天太玉命を相殿合祀したとする。 |
竜泉寺 竜泉寺は、推古天皇2年(594年)、仏教興隆のため、蘇我馬子が創建した寺院と伝えられている。寺伝によると、この地に悪龍が住む池があり、里人に害を与えていたので、馬子が呪■■を修すると、龍は仏法の威に勝てず飛び去った。しかし、その後付近一帯は■として寺も里も衰えてしまったが、弘仁14年(823年)正月8日、弘法大師が加持祈祷すると、法味に感じた龍が再来し、水も豊かになったので、これにちなんで池の3島には弁財天、聖天、叱天をそれぞれ祠り、牛頭天王を鎮守薬師如来として牛頭山龍泉寺医王院の号を賜った。その当時は、堂塔をはじめ23の僧坊を周備していたが、南北朝時代、楠正成が龍泉寺山(嶽山)に城を設けたため兵火にかかり、殆ど焼失した。 龍池と伝えられる池は古代庭園(国指定名勝)として貴重で、弘法大師が龍王を祠った井戸は「雨乞井戸」といわれ、現在も残っている。また奈良時代の塔の礎石、鎌倉時代の仁王門(重要文化財)、南北朝時代の聖徳太子二歳像、同納入品の印仏(府指定)などがあり、昔時を偲ぶ瓦も多数出土している。 社頭掲示板 |
咸古神社 鍬靭 咸古は己牟久と訓べし、和名鈔、(郷名部)紺口、○祭神詳ならず○龍泉寺村瀧泉寺医王院鎮守とす、今牛頭天王と称す、本堂の後に在す、(河内名図会○同志に、龍泉村とのみ云るは疎也、)例祭9月9日、 姓氏録、(河内国皇別)紺口縣主、神八井耳命之後也、○日本紀、仁徳天皇14年、是歳、堀大溝於感玖、 神社覈録 |