一宮浅間神社
いちみやあさまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】浅間神社(名神大) 甲斐国 八代郡鎮座

   【現社名】一宮浅間神社
   【住所】山梨県西八代郡市川三郷町高田 3696
       北緯35度33分14秒,東経138度29分24秒
   【祭神】木花咲耶姫命 (合祀)瓊瓊杵尊 彦火火出見尊 事解男命
   【例祭】11月3日
   【社格】旧村社 甲斐一宮
   【由緒】由緒不詳

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「一宮」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

市川大門駅近くに鎮座する。
貞観6年(864)富士山大噴火の翌年12月、勅命により、正体山に浅間大社を祀り官社に列せられたのを延長2年(924)10月現在地に遷宮した。





正体山

千年くらい前、富士山は大ばく発をしました。富士山のふもとのせんげん神社の神様だった木花咲耶姫(このはなさくやひめ)は、けらいをつれて西へ逃げました。ひるがたけのふもとを通って西へ進みましたが、毎日歩いてつかれていたし、食べ物も食べていかなかったので、もう一歩も歩けなくなってしまいました。ふと気がつくと泉がわいているので、その水をむさぼるように飲みました。来た道をふりかえってみると、火をふく富士山のすがたははるか遠くに見えたので、ここまで来ればひと安心と休むことにしました。しばらく休んでいた一行は、この山を気にいってここに住もうと考えました。
一方、富士山の浅間神社では、神様がすがたを消してしまったので、どこに行ってしまったのかゆくえをさがしていました。市川大門町の高田の方へもさがしに来た人がいたので、木花咲耶姫はある月の明るい夜、白い着物をぬいで正体山の上にそのすがたをあらわしました。ゆくえをさがしていた人たちはよろこんで姫を山のふもとの丘の上につれてきました。それからこの山を正体山とよび、丘に神社をたてて姫をお祭りしました。これが今市川にある一宮浅間神社です。
これが現在市川大門町高田にある一宮浅間神社です。

http://www.ichikawa-sho.ed.jp/fujisan/densetu.htm






一之宮浅間神社

旧村社の浅間神社は、貞観6年(864)富士山大噴火の翌年12月、勅命により、正体山に浅間大社を祀り官社に列せられたのを延長2年(924)10月現在地に遷宮しました。
西面する表参道に添って、室町時代の作と伝えられる木像を配する随神門、多くの絵馬が奉献されている拝殿、その奥に木花咲耶姫命を中心に瓊々杵尊、彦火々出見尊を配祀する流し造りの本殿が直列式に並んています。2.7ヘクタールの境内には、県指定の自然記念物の根上がりの松を含めてのアカマツが聳え、ツツジの名所でもあります。
境内には、高田村名主依田重左衛門安清の「宣旨浄徳霊祥」。市川代官荒井清兵衛顕道の二体の生祀をはじめ多くの社が合祀されていて、高天原の伝説の高台もあります。
社宝には、「赤烏元年5月25日銘記の国の重文「四神四獣」の銅鏡、県指定の和鏡徳川家康奉納の助光の太刀などがあり、祭典の11月3日には盛大な御神興の渡御があり、5月の第2日曜日には、つつじ祭が行なわれます。
山梨県・市川大門町。

社頭掲示板



一宮浅間神社

清和天皇の貞観7年(867年)12月富士山噴火の翌年、勅命により現在の社殿の南の正躰山に大社を祀ると伝へられ棟札に延長2年10月とあり、天正の乱を経て一時廃絶に近きこともあったが徳川時代は社領、助光の古刀などの寄進があり末社六十余社に及んだ。現在の社殿(楼・拝殿・本殿)は元禄5年に計画を立て同17年(1704年)に完成遷宮した旨の棟札が残されてゐる。
一、 銅鏡「神獣鏡」・・・・・国指定の文化財(現在東京国立博物館展示)
一、 銅鏡「内行花文鏡」・・・県指定の文化財
一、 アカマツ林 ・・・・・・県指定の自然記念物があり、境内には県内十三ヶ所の生祠(せいし)が確認されてゐるうちの三人(荒井寄与兵衛顕道・依田十左得門安清・伴秋吉)が神と崇められ祀られてゐる。

山梨県神社庁



依田重(十)左衛門安清の生祠

依田重左衛門安清は、依田氏の高祖依田右衛門介信蕃より数えて十五代の後裔で、没年は寛延4辛末(1751)年9月10日、法名は、白翁道省居士である。
祠内の正面に、二行にわたり「宣旨 浄得霊神」。
左外側面に建立年月日「延享4年(1747)卯2月7日」。
右外側面に祠建立者、依田重衛門安清の子勘助安春の「依田氏安春」と各々二行に刻まれていて、祠の屋根裏の見えないところに「宗源宣旨 依田安春 荒蜆 延享4年2月7日 宝永戊子(1708)年9月18日 春秋五十七歳卒」とも刻まれている。安清は享保3(1718)年、国主柳沢吉里に村民救済を嘆願し、三ケ年を要して河川を浚渫して良田を開いたが、寛保2(1742)の大洪水の時は、流失した田畑を開ぎ一身を挺して村難を救った又一之宮浅間神社に石垣と石段を寄進したり、神殿扉の金箔張替及び神楽殿も寄進したことから、京都吉田家に申し出、延享4(1747)年同家より「浄得霊神」の神位を賜った。延享4年は、安清没年の寛延4年より四年前のことで、「生き神様」として、子の安春が浅間神社境内に生祠を建立したものである。
平成8年2月7日
市川大門町高田2710番地 依田義行

社頭掲示板



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