浅間神社
あさまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】浅間神社(名神大) 甲斐国 八代郡鎮座

   【現社名】浅間神社
   【住所】山梨県南都留郡富士河口湖町河口 1
       北緯35度31分51秒,東経138度46分29秒
   【祭神】木花咲耶姫命 瓊瓊杵尊 大山祇命
   【例祭】4月24日 春季大祭
   【社格】旧県社 甲斐一宮
   【由緒】貞観7年(865)創祀
       慶長11年(1606)焼失
       明治4年郷社
       大正13年 県社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】富士山
   【祭祀】
   【社殿】本殿一間社流造
       拝殿・神門・社務所

   【境内社】諏訪社・山神社・合祀社・出雲社

56代清和天皇の御宇、貞観6年5月富士山大噴火の事あり、富士山北面に在った大湖ノ海(現青木ケ原流域)埋没す。この大噴火の為、時の住民は甚大な災害を被く。此の事、甲斐の国司、橘ノ末茂公より朝廷に奏上、翌貞観7年12月9日丙辰の勅命により、富士山の神、浅間明神を此の地に奉斎。


由緒

人皇第56代清和天皇の御宇、貞観6年5月富士山大噴火の事あり、富士山北面に在った大湖SEノ海(現青木ケ原流域)埋没す。この様大噴火の為、時の住民は甚大な災害を被く。此の事、甲斐の国司、橘ノ末茂公より朝廷に奏上、翌貞観7年12月9日丙辰の勅命により、富士山の神、浅間明神を此の地に奉斎、大領伴直真貞公を祝に同郡の人伴秋吉公を祢宜に任じ、富士山噴火の鎮祭を行う。これ当神社の御創祀にして、今より1150年程前の事なり(日本三代実録による)、降って延喜の制により明神大社に列せられる。
(注)文中のSEは、「戔」偏に「リ」です。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




河口湖指定有形文化財

河口浅間神社本殿
貞観7年(865)に富士の噴火の怒りを静めるために勅命によって建てられたが、慶長11年(1606)焼失、翌年領主鳥居土佐守成次が再建する。
この本殿は一間社流造りで唐破風付の向拝を備えた折表様の建物で、宮大工関善左右衛門尉藤原家継らの手で完成した。
昭和40年鎮座1100年祭記念事業として、解体修理をし、元の状態に復す。祭神は「木花咲耶姫命」
例祭日、 4月25日
大々神楽祭、 7月28日
昭和49年5月14日
河口湖町教育委員会
河口湖町文化財審議会
山梨県指定無形文化財
河口の稚児舞
昭和35年11月7日指定
南都留郡河口町河口一
今より約1100年前、清和天皇の貞観6年に富士山の大噴火があり、この様子を甲斐の国司より朝廷に奏上したところ、勅命により鎮火の神、浅間明神(木花咲耶姫命)をこの地に奉斎し、鎮火祭を行った。これが当神社の創立であって、鎮火を鎮められた祭神の御苦労をお慰めする為に始められたのがこの稚児の舞で、奉仕は神主か御師の娘のうち、七歳から十二歳ぐらい迄で両親の健在な者に限られる。
毎年7月28日が奉納日で、大々御神楽祭と称し、俗に「おだいだい」とも言い、稚児舞を演ずる子供は「おちいさん」と言われている。
この舞には五種類あって、頭には舞瑶珞、緋のちはや、さしぬき等をまとい奉仕する姿は、まことに雅やかなものである。
昭和49年2月1日
山梨県教育委員会
河口湖町教育委員会

社頭掲示板



浅間神社

所 在 南都留郡河口湖町河口壱番地
境 内 4,551坪(15ヘクタール、被譲与国有地)
    山宮三十町歩
神社名 延喜式内
    明神大社 浅間神社
祭 神 木花咲耶姫命
由 緒 人皇弟56代清和天皇の御宇、貞観6年5月富士山西北峰大噴火の事あり、時の住民は甚大な災害を被く、この事甲斐ノ国司橘ノ末茂公より朝廷に奏上、翌貞観7年12月9日丙辰の勅命に依り鎮火の神浅間明神をこの地に奉斎、無位擬大領伴直真貞(むいぎのたいりょうばんあたいまさだ)を祝(はふり)伴秋吉(ばんあきよし)を禰宜に任じ、富士鎮火祭を執行す。
これ当神社の御創祀なり。郡家以南に建立官社に列せられる。
社 格 醍醐天皇御宇、延喜の制に依り明神大社に列せられる。
    明治4年 郷社 
    大正13年 県社 この社格戦後廃さる。
祭 日 4月25日 例大祭(孫見祭まごみのまつり)
    御輿産屋ケ崎神社に神幸
    7月28日 鎮火奉謝祭(稚児の舞祭)
    県指定無形文化財。俗におだいだい(太々御神楽祭の意)と言う
特 殊 神 事 2月14日 深更 筒粥祭 農作物粥占神事
    7月31日 身曽岐流(みそぎながし)
宝 物 三國弟一山 額 公辨一品親王御筆
    大元霊(おおもとだま)額 醍醐天皇御震筆
    思無邪抽(おもいよこしまなし)額
    後陽成天皇御震筆狩野絵馬  
    戸田忠實公奉納 狩野洞眠邦信筆
    油彩鎮子 一対 鎌倉時代末期製作
    太刀 一振 応永2年8月 家長作
建 物 御本殿 町指定文化財
    境内 七本杉 県指定天然記念物
御神徳 安産、結縁、育児、奨学、裁縫、家内安全、商売繁盛

社頭掲示板



浅間神社

今から千百拾数年前、清和天皇、貞観6年(864)富士山大噴火があり、是に伴ふ此の地方の災害の様子と共に富士山の神、即ち浅間大神をお祀りした事情が『三代実録』にこと細かに記述されてゐる。之によると当時は富士山そのものを浅間大神の神体山とし、主に駿河国からのみお祭りされて居り、大神の心情として甲斐国からも国の公齋社(公にお祭りする社)祭儀執行を要求したが、官民之を覚ること出来ず、為に大神は噴火に先達ち百姓の病死やら大暴雨、雷雨、其の他濃霧を立ち込ませ山野の別が判らぬ程の凶事を成した上、大噴火を示したが、尚之を悟ることが出来ず、止むを得ず八代郡の擬の大領(今日の郡長に当る職)伴値真貞公(値は当時豪族に与へられた姓)をして神懸の状態となし「我は浅間明神なり。私の希望してゐる事を悟ることが出来ないのでこの様な鎖さ恠を示すのだと、さかんに申し立て一日も早く祝(今日の宮司職)祢宜を任命し神社を建立、我を齋き祀り祭儀をさせよ」と申し立てゐるので、時の甲斐国司、橘ノ末茂公は、真貞公の申し立てゐることが真実か卜筮した処、その申し立てに間違ひなしと判ったので、早速伴真貞公を祝に、同郡の人伴秋吉を祢宜に任じ、八代郡の郡家(郡の役所)以南に祠を建て、明神を齋き祀り、官民挙げて奉謝鎮祭(明神の希望してゐることが察知出来なかったことを謝り、鎮めまつる意)を執り行ったが、依然として噴火が止まないので、国司は使者を遣はし検察するに、せの海を千町歩を埋めたてた程の大噴火で、その神社は富士山と正対した静かな場所に、石造りで色合ひの麗しきこと口では言ひあらはせぬ程の美しさであったので国司は之を朝廷に報告、神祇台帳に登載の上官社に列した、と記述されてゐる。以上が河口の浅間神社御創立に係はる縁起であり、由緒の大要である。
 此の『三代実録』は日本国古代史を伝へる六国史の一つで、今より千百年前後の平安時代前期、清和、陽成、光孝の三天皇の時代の出来事を細かに記実した、五十巻の史実書である。前記の記録は、清和天皇の御宇、貞観7年12月9日の条に明記されてをり、従って当神社の御創建はこの日を以って古来より、創立の日と定められてゐる。
 降って醍醐天皇の御代、延喜の制に於て、名神大社に列せられ、平成23年文化庁史跡「富士山」構成神社となる。
参考文献『三代実録』『延喜式神名帳』『一宮記』『大日本史』『甲斐国志』『一宮巡詣記』『甲斐叢記』『大日本地名辞書』『帝国地名辞典』『山梨県統計書』が賀茂季鷹の『富士山記』等本社の縁起由緒等を記述した既刊文献を参考迄に揚げたが、古代史を除いて大方は江戸時代以降刊行された史実書であるが、何れも古代当地方の、甲斐国八代郡であったことの認定の上に立ち、本社を式内名神大の社としてゐる。
 昭和58年に出版された『浅間神社正史』(当時の宮司伴泰著)の中で、近時新発見した、富士吉田市新倉の渡辺一家氏衆の古文書(平安時代か)でも古代当地方を甲斐国八代郡と明記してゐる。
 大々御神楽祭7月28日(稚児舞祭)

山梨県神社庁



郷社 淺間神社

祭神 木花咲耶姫命 彦火々出見命 大山祇命 
   罔象女神 多久幡干千姫命 素戔鳴尊
   日本武尊 菅原道眞 保食神
創建は清和天皇貞観7年12月9日にして、式内神社なりと社記に見えたり、河口村今河口村と云ふ古駅舎とす、往時は八代郡の管内たり、三代實録に、貞観7年12月9日丙辰勅甲斐国八代郡、立淺間明神祠、列於官社、即置祝禰宜随時致祭、先是彼国司言、往年八代郡、暴風、大雨、雷電、雲霧査冥、難弁山野、駿河國富士大山西峯。忽有熾火焼砕岩谷、今年八代郡擬大領無位伴直真貞託宣云。我淺間明神、欲得此國齋祭、頃年為國吏成山害為百姓病死、然未曾覚悟、仍成此権、須早定神社兼任祝禰宜潔奉祭、真貞之身、或伸可八尺、或屈可二尺、変体長短、吐件等詞求之卜筮所告、同託宣、於是依明神願、以真貞為祝、同郡之人伴秋吉為禰宜、郡家以南作建神宮、とあるは川口の淺間たる事明かなり、且つ嚢年の爆火に富士山裾野の諸村皆埋没したれども、此の里は河口の湖の北岸に在りければ、噴火は湖水に隔てられて及ぷことなかりしなり、残間風土記に、八代郡淺間明神圭田百五十束三字田とあり、然るに今の一宮淺間碑社を以て、延喜式神名帳所載とするは誤ならんか、一宮の邊、古は山梨郡に属し、二百年前迄も猶然り、川口は後世に至つて都留郡に入りし故に、世人は八代の淺間たる事を知らす、又三代實録に貞観7年12月20日丁卯令、甲斐國於山梨郡致祭浅間明神、一同八代郡、とある是れ今の一宮浅間社なる可し、今山梨郡を尋ぬるに外に然る可き社なけれぽ、一宮社たる事疑なかるべし、然れば川口淺間と同年同月の鎭座ながら、川口は最初の社ならんか、且つ地理を以て之れを考ふるに、三代實録に八代郡郡家以南とあれど、一宮は郡の最北に方り、方位大に相違せり、是れ当社貞観7年初鎮座の証とする所なりと云ふ説もあれど、歴年久遠禰宜等が後胤もなければ、何れが是れなる事を知らず」(甲斐国志同叢記)神祇志料には当社を式内社の條に入れ、神社覈録は之れを式外として探れり、而れども志料の説を讃み以て行くに、「甲斐の一宮なり云々、山宮神幸の前神官麻を撒して云々、里人戒めて門戸を出つる事なし云々、神官伴氏今に至て本社に仕ふと云ふ」とあり、此等の事当社社記には見えず、或は疑ふ、志料一宮なると河口なると誤り記せるには非ざるか、兎に角に此論は容易に解決すべきならねば暫く之れを措く、さて当社の事歴としては今知る可きもの、「慶長12年島居土佐守成次の造営元禄10丁丑年旗元但馬守喬朝建立等あり、世々国主崇敬の社たり、偏額三国第一山の五宇は、輪王寺の宮公弁親王の御筆、背面に記あり、曰く奉寄進銅額甲州郡内川口淺間廣前、従五位下但馬守藤原朝臣秋元喬朝、遍照金剛一品公弁親王、書之、銅工本村政友作元禄10丁丑年3月23癸夘日扁額一面「大元霊」の三字あり、背面の記に奉寄進額御宝前、願主高山五兵衛御師大玉屋三浦刑部吉住判」(甲斐国志)など見えたり、又前記但馬守大鳥居を建立す、先きの銅額は其扁額なり、明治5壬申年3月郷社に列す、同9年拝殿を改築す、後同村内なる山神社外8社を合併す。
社殿は本殿、拝殿、祀詞殿、神馬屋等より成り、境内3453坪(官有地第一種)あり、老樹鬱然として風色佳なり、

明治神社誌料



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