正一位浅間神社
しょういちいあさまじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】表門神社 甲斐国 八代郡鎮座

   【現社名】正一位浅間神社
   【住所】山梨県西八代郡市川三郷町宮原1
       北緯35度29分22秒,東経138度28分5秒
   【祭神】木花開耶姫命 天迩岐志國迩岐志天津日高日子番能迩迩藝命 天津日高彦火火出見尊
   【例祭】4月13日近い日曜日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】第12代景行天皇56年6月塩海足尼が甲斐の国造として入国の際に創建
       成務天皇56年幣帛を賜
       大化年中徳丸皇子の祈願で社殿造営
       神護景雲元年坂上田村麻呂造営
       天保8年有栖川宮家より正一位の神階を受ける
       明治6年郷社浅間神社と改称

   【関係氏族】
   【鎮座地】

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「浅間神社」「磐間宮」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

『明治神社志料』は当社を表門神社に比定している


由緒

当社は木花開耶比賣命・天迩伎志国迩伎志天津日高日子迩迩伎命・天津日火火出見命をお祀してあります。
当社は第12代景行天皇の御代、塩海足尼が甲斐の国造(くにのみやっこ)「現知事に当たる」として入国の際幣帛を奉ったと云われ往古は表門社又は浅間神社或は磐間宮とも称し岩間庄内の総鎮守として、又後陽成院第8皇子良純親王の御行宮の跡を里人尊崇し浅間社中に神殿を建設して八之宮と称し勧請したが、明治元年暴風のため大破し浅間社へ合祀したとも云う。
元来朝廷・武将並一般庶民の崇敬篤く、有栖川宮家祈願所として旧公祭として祭典の度毎、天下泰平・五穀成就・産子安全を祈願し行政の執行に当り、或は治山・治水に行政を扶け、子孫繁栄と操高き女の道を示された。
木花開耶比賣命の神徳を仰ぎ安産・児育ての神として一般信仰を併せ諸祭が執り行なわれて来た、古くは神名帳に記載された名社である。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




正一位 浅間神社

當社は、木花佐久耶比賣命、邇々藝命(天邇岐志 国邇岐志天津日高日子番邇々藝命)、彦火々出見命(天津日高彦火々出見命)の三神をお祀してあります。當初は第12代景行天皇の御代塩海足尼が甲斐の國造(現知事に當る)として入國の際幣帛を奉ったと云われ、往古は表門社又は浅間神社或は磐間宮とも稱し岩間庄内の総鎮守として、又後陽成院第八皇子良純親王御行宮の跡を里人尊崇し浅間社中に神殿を建立して八之宮と稱し勧請したが、明治元年暴風のため大破し浅間社へ合祀したとも云ふ。元来朝廷武将並に一 般庶民の崇敬篤く、有栖川宮家祈願所として舊來公祭として祭典の都度天下泰平五穀豊穣産子安全を祈願し行政の執行に當り、或は治山治水に行政を扶け子孫繁榮と操高き女の道を示された木花咲耶姫の神徳を仰ぎ、安産児育の神として一般信仰とを併せ諸祭が執り行なはれて来た等古くより神名帳に記載された名社である。
平成3年10月吉日 奉納 山本政徳
宮司 内藤吉光 代

社頭石碑




浅間神社

景行天皇の御宇国造塩海足尼の創建になり、成務天皇56年幣帛を奉り一名磐間宮と称す。大化年中徳丸皇子祈願に依り社殿改築、神護景雲元年(767)冬坂上田村麿社殿改築、大同年中甲斐守橘安産祈願、後、甲斐守守次神楽殿建立。戦国時代兵火に焼亡するも再建され、朝廷武将の崇敬篤く天保8年有栖川宮家より正一位の神階を賜り同家祈願所となり、中務郷部仁親王より「甲斐国正一位浅間神社」御染筆下賜される。明治6年供進使指定郷社。

山梨県神社庁




宮原浅間神社壱番神輿

町指定文化財
宮原浅間神社壱番神輿
本神輿は、山梨県における三大神輿の一つといわれ、文化13年(1816)下山村大工石川七郎左衛門らによって建造以釆180年を経過しているが、損傷個所も少なく優美精緻の状態を保つている。
この状態を永く後世に残すため、昭和39年に別の神輿一基を建造し、例年4月13日(近年は直近の日曜日)の例大祭は、新しい神輿を使用し、本神輿は、本殿に安置して参拝者の観覧に供している。
指定 昭和62年3月14日
所有 浅間神社
市川三郷町教育委員会

社頭掲示板



郷社 淺間神社

祭神 木花咲耶姫命 天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇々藝尊 天津日高彦火々出見尊
創立年代詳ならず、然れども社記に拠れば、景行天皇56年6月、塩海足尼甲斐国造として入國幣帛を奉ずと云ふ、「浅間明神宮原村上門と云ふ処に在り、岩間葛籠澤、宮原三村の産神にして、三ノ宮と称せり、蓋し岩間庄内の総鎮守なるべし、社地1600余坪、社記亦伝へて表門神社なりと云ふ、祭礼は4月13日、神輿を山宮に移し、神樂を奏して祭る、河内神幸とて、古は東河内領十島より落居に、西河内領は、南部より箱原に至るまで、諸村より人夫を出して供奉し、神主も帯金より上の方九人集会して、神樂を奏せしよし、其頃は公祭にて有志の警固あり、旧規存して今に岩間村伊藤氏、其投を勤め、御幸の前駈しつ、之れを御奉名主と云ふ、6月15日岩間宿を経て富士川の上に幸し、夏越の神事あり、又二日中日を撰みて神樂を奏す(甲斐国志〉当社を表門神社に擬てたるは他に徽証なきを恨む、而も國志の称する所に拠り、古社にして衆庶の崇敬を蒐めたる神社たりしことは確かに窺ひ知らるゝなり、明治6年郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿を具へ、境内983坪(官有地第一種)にして風色佳絶なり、

明治神社誌料



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