表門神社
うわとじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】表門神社 甲斐国 八代郡鎮座

   【現社名】表門神社
   【住所】山梨県西八代郡市川三郷町上野字町屋 2767
       北緯35度33分54秒,東経138度30分41秒
   【祭神】天照大御神 倉稻魂命 瓊瓊杵尊
   【例祭】4月3日 春季例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】孝霊天皇2年の鎭座と伝
       永保元年(1081)文殊画像寄進
       文亀より大永(1501−28)武田氏の篤い崇敬
       天正10年(1582)3月3日徳川家康の陣所
       慶長14年(1609)3月3日家康社殿改築造営
       明治5年2月郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「市川御崎明神」「市川明神」「市川文殊」と称していた
   【社殿】本殿流造銅板葺
       拝殿・神樂所・随神門・御輿舎・参籠所

   【境内社】

上野小学校北に鎮座する。
永保元年(1081)白河天皇御悩の時、本社市川神主上京中であつたが、召されて祈祷、御平癒になつたことから、社頭末社に至るまで修理造営、文殊画像の御寄進をうけたという。
山宮が本社の東約800m、三珠町上野の小高い地にあったが現在は無い。


表門神社

表門神社本殿 同神楽殿
所在地 三珠町上野2767番地
昭和44年4月17日指定
表門神社は、御崎神社あるいは市川文殊とも称され、延喜式内社で由緒ある神社である。祭神は天照大神・倉稲魂命・瓊々杵命の三神である。
〔本 殿〕
 「甲斐国志」には、永保年間(1081〜4)を初めとして数回の造営記録があるが、現在の建物は棟札によって元禄8年(1695)の建立であることがはっきりしている。
 本殿は三間社流造で、今は銅板で覆われているが当初は檜皮葺である。蟇股・脇障子・手狭等に獅子・鶴・鳳凰等の動物の彫刻が精巧に施されたうえ彩色がなされ、正面扉には金箔が貼られている。
 棟札には大工の名、石川久左衛門家久及び重良と記されており、下山大工の作であることが知られる。
 文化15年(1818)に屋根替が行なわれているが、他に大きな改変部分はなく、当初の形態をよく残した江戸中期を代表する建造物である。
〔神楽殿〕
 本殿と同じく元禄8年の造立である。この時に今も残る拝殿・隋神門・鳥居も一緒に建てられており、境内の景観を一新したものと思われる。
 正面一間、側面一間、切妻造檜皮葺(現在銅版葺)のこの建物は木鼻の渦紋や形態をみると本殿と同一であり、同時期の建物であることがはっきりわかる。
 毎年2月第1日曜日(以前は2月第1の酉の日)の例祭には、この神楽殿で約900年前から受け継がれている。町指定文化財「太太神楽」が奉納される。

社頭掲示板




表門神社石鳥居

西八代郡三珠町上野2767
表 門 神 社
昭和46年4月8日
 この鳥居は春日型と呼ばれ、全体の構成は直線的で反りが少なく笠木、島木の両端もほぼ垂直に切られている。また太い柱は転びが少なく双方とも中ほどで継ぎ足されている。
 鳥居の総高2.74mに対し、柱幅は真々で2.57mほどもあり後世のものにみられない背の低い安定感に富んだ貴重な遺構である。  造られた時代は鎌倉時代と推定されている。
昭和54年1月
三珠町教育委員会
山梨県教育委員会

社頭掲示板



表門神社

社伝によると、延喜式内表門神社であり、祭神は天照大御神、倉稲魂命、瓊々杵命の三座にして御崎大明神ともいひ、明治5年に郷社に列せられた。人皇第7代孝霊天皇の御代の御鎮座にして往来は上戸村といったことがある。人皇第72代白河天皇の永保元年主上御悩みあらせられし時、たまたま神主上洛中にて、占の名誉、洛中に高く御所に召されて、御占の上祈念の所、忽ち御平癒あらせられ、叡感斜ならず、社頭並に51の末社迄御造営の上空海筆になる梵字の文殊画像を御寄進せられ、併せて市川の郷を神領に賜り勅願所と認められ、それより市川明神とも称せられてゐた。現在の市川大門町は社前に続く東西一里を隔てた所にある。上の大鳥居と下の大鳥居の地名は当時を物語るものである。これより後、学びの途の神として、俗謡にも「市川文殊、知恵文殊」と歌はれて今日に至ってゐる。

山梨県神社庁



表門神社

表門は宇波刀と訓べし、和名鈔、(郷名部)山梨西郡表門、○祭神倉稻魂命、(名勝志、参考、)○市川郷上野村に在す、今御崎明神と称す、(同上)例祭3月3日、11月酉日、○当國巨麻郡宇波刀神社あり
社領
当代御朱印高四十一石余

神社覈録



郷社 表門神社

祭神 天照大御神 宇迦之御魂神 瓊々杵命 創建は孝霊天皇2年の鎮座なりと云ふ、延喜式に八代郡表門神社名神小(延喜式)とある所の古社なり、(神祇志料神社覈録)中世以後御崎明神とも、市川文珠とも称せり、大聖文珠を安置するが故なり、(甲斐国志)市川文珠夢想と云ふ事、東鑑に見え、又諸記天正壬午條中に「文珠堂の麓、市川口に乱入す」など見ゆるは、皆之を指せるものにて、昔は山宮に安置せしなるべし、永保中官より造営あり、天正10年3月家康公戦陣を構へられし節、市川別当又六を召出され、黄金井に鳥帽子淨衣等を下され由緒御尋ありて、祈念を命せられ、且つ社壇再興あるべき旨恩命を蒙り、翌4月19日市川、新所、大津、河東、三条、曾根、淺利、東花輸にて二十八貫六百十文の神領先規の如く朱印状を附せらる、(甲斐国志甲斐叢記)即ち、市川御崎明神社領八代郡上野村内四十一石一斗余者、所被載天正11年4月19日、寛永19年7月17日、両先判也、如先規永不可有相違者也(諸社御朱印写)とある是なり、慶長14年河野彌五右衛門岩波七郎右衛門奉行にて造営あり、其後元禄8年江戸より材木を寄せられて修埋ありたり、鈴の銘に「甲州市川郡御崎大明神大旦那継忠、宝徳2年卯月吉日同国宇津、谷作」と刻せり、祠後の射場は家康公御張陣の時より始まると云ふ、祭祀年中七捨五度、其中3月3日11月上酉日を大神事とす、酉の日の祭は、逸見冠者義清此に住せし時、館中に神輿を迎へ、神樂を奏せし例なりとて、今猶別当の宅に神輿を移して祭儀あり、宝庫に藏する所朱印状八通を始め、古器物古文書十数種あり、古器物は多く信玄の奉納に係り、社中文珠画像は弘怯の肇と伝へて尤も珍宝たり、(甲斐国志同叢記)尚社記に拠れば、「白河天皇の永保元年本社以下五捨一社御造営あり、且文珠書像、及市川郡に於て神領地を賜はる、是より市川明神と称し、勅願所となる、此時に当て鳥居を上下鳥居村に建つ、其遺跡今尚存せり、降つて文亀、大永の間、武田信虎の世に及び、社領を滅ぜられしも、晴信に至りて甲斐国四方の鎮守を定め、当社を南方の鎮守とし、崇敬醤ならざりき、」とあり、其の古来大社たりし事推知するに足るべし、明治4年社領を上地し、同6年郷社に列す、同40年10月同村諏訪大神社を合併す、
社殿は本殿、拝殿、庁屋、神樂殿、随神門、宿直所等を具し、境内4608坪(官有地第一種)にして、社域広闊風物亦優雅なり。

明治神社誌料



甲斐国INDEXへ        TOPページへ


学校DATA