笛吹川に注ぐ印沢川がつくる扇状地の中腹市川小学校西に鎮座する。 日本武尊の東征に従って来て、当地に留まった大伴武日の館跡とする。 大伴武日命は、日本武尊より「靱部」を賜ったことから靱部社=弓削社となったとする。 「続日本紀大宝2年(702)2月22日の條に、「歌斐國献梓弓五百帳。以充大宰府。」とあるが、甲斐國には古くから弓削部がゐて、弓を製したのであらう。延喜臨時祭式にも、甲斐國は祈年祭料の雑弓として、信濃國の梓弓百張とともに、槻弓八十張を毎年進上することが定められてゐる。そのやうな國であつて、弓削神社が奉齋されて來たものとみられる。」(式内社調査報告) |
弓削神社 御祭神 瓊々杵命 木花開耶姫命 彦火火出見命 大伴武日命 御祭日 歳旦祭 1月1日 祈年祭 3月1日 例祭 11月3日(神輿の渡御あり)七五三祭 11月15日 新嘗祭 11月23日 月次祭 毎年1日 弓削神社御由緒 勧請年月は不詳であるが、延喜式所載の甲斐国二十座の内の一社である故少くも今より1300年以前の創立である。 日本後記に「延暦24四年(西暦782年12月甲斐国巨摩郡弓削神社官社に列す霊験あるをもってなり」と記載しあり、此辺は古来、八代・巨摩郡両郡の境であったので時勢の変遷と共に或は巨摩郡に或は八代郡にその所属が異動したもののようである。 景行天皇40年皇子日本武尊、吉備武彦、大伴武日連を従えて東国を平定し還路甲斐国に至り、酒折宮に駐留せられた際靱部をもって大伴連の遠祖武日に賜うと伝えられ、大伴武日命はその後此地に留まり、居館を造営し此周辺一帯を治めたが土人のその徳を慕うもの其子孫と共に本社を創設したもので、社号のユゲはユキベの約にて靱部社と云うが如く、然れば本社の創建は遠く成務仲哀の御宇にありと云へるのである。 当社の南に弓削塚という古墳あり、その辺の字名を御弓削と呼ぶ伝えて大伴武日命の墳墓にして当社はその館跡なりとも云はれている。 鳥居の前に老松があり、そのかたちあたかも蟠竜の如く、幾百年を経たものかを知らず、伝え云う天正10年徳川家康宿陣の際この松を見ていたく愛賞され、その後これを 「御言葉の松」と称し、広く近隣にその名を知られ神社の御神木として敬仰せられたが惜しくも江戸末期枯死して今は空しくその名を止むるのみである。 甲斐源氏の祖刑部三郎義清市川の郷に館していた時、曾て本社に通夜し左の歌を詠じた。 「おのずから心も清しみしめ縄 弓削の社の神垣のうち」 明治6年郷社列す。 境内に白紙社あり、天日鷲神・津昨見神を祀る。 他に地主社・東照宮・衢神社等の境内社がある。 宮司 青嶋貞昭 平成14年11月 奉納 総代 一瀬喜延 社頭掲示板 |
二之宮弓削大明神の社叢 神社の境内の大部分はシラカシの自然林で、特に社殿の後方では純林を形成し、総数60本余り、大きいものは胸高周囲3m、樹高23mに達し、こんもりと茂ってその景観のすばらしさは県下まれに見るものである。 この叢林は暖帯林の残されたもので、この一帯の昔の森林の様子を考える上に貴重なものである。 昭和53年11月3日 甲斐国市川郡 延喜式内弓削神社 社頭掲示板 |
弓削神社 勧請年月不詳なるも延喜式所載甲斐国二十座の内の一社なる故少なくも1300年以前の創立である。日本後記に「延暦24年(782)12月甲斐国巨摩郡弓削神社官社に列す靈験あるをもってなり」と記載しあり、此辺は古来八代巨摩両群の境界なりし為時勢の返還と共にその所属が異動せしものの如し。景行天皇40年皇子日本武尊、吉備武彦、大伴武日連を従へて東國を平定し還路甲斐国に至り酒折宮に駐留せられた際、靱部をもって大伴連の遠祖武日に賜ふと伝へられ大伴武日命はその後此地に駐し居館を造営し此一帯を治めた。土人その徳を慕ひ本社を創設したもので社合のユゲはユキベの約にて靱部社と云ふが如く、されば創建は遠く成務仲哀の御宇にありといへる。甲斐源氏の祖刑部三郎義清市川の郷に館してゐた際曽て本社に通夜し左の和歌を献ず「おのづから心も清しみしめ縄弓削の社の神垣のうち」明治6年郷社に列す。 山梨県神社庁 |
弓削神社 弓削は由介と訓べし○祭神瓊々杵尊、木花開耶姫命、彦火々出見命、(名勝志)○市川郷大門村に在す、(同上)例祭月日、○頭注云、二宮也、(連胤云、今は二宮村美和社を二宮とす、) 甲斐名勝志云、此邊に矢作と云処あり、往昔弓矢を作りし地也とそ、 類社 河内國若江郡弓削神社の條見合すべし 神社覈録 |
郷社 弓削神社 祭神 瓊々杵命 木花咲耶姫命 彦火々出見尊 創立年代詳ならず、当社の所在は、現今八代郡に属すれど、元と巨摩郡市川郷(和名抄)にして、小字を御弓削と称す、延喜式に「八代部小五座中御弓削神社」とあるは即ち是なり、(神祇志料神社覈録同)「祭神饒速日命(神名帳考証)「天杵瀬命、娶吾田津姫生児火明命」(日本記)弓削宿根、神饒速日命之後也、」姓氏録)又弓削の名の因て来る所以は、「祈年祭料甲斐槻弓八十張」(四時祭式)等の記事あり、只現今の祭神と異なるは尚研究す可きなり、当社の朝廷に重せられたる事は、続日本後紀に「延暦24年甲斐国巨摩郷弓削社、預官社、以有霊験也、」と載せられたるにて章かなり、按するに此邊は八代、巨摩両郡の境に接するを以て、古来或は八代に属し、或は巨摩に属せり、と社記に見ゆ、近世社領二石九斗余、相傅へて弓削神社と云ふ、社道に弓削塚、御弓削等の地名あり、扁額二面裂けて二片となれり、伝へて吉備公の所書と云ふ、獅子一箇、道遙子連歌の一巻共に宝庫に藏めたり」(甲斐国志)又二ノ宮と云ふ、祭神は瓊々杵尊、木花咲耶姫命、日本武尊、大山祇命、大伴武日命、併せて五柱なり、社傳に云ふ、此武日命は倭武尊東国を平げて都へ帰らせ給ふ時、尚東国押への任を受けて此地に留り給ひしなり、其御館の跡、即ち本社にて、御墓は此社の南に続きて弓削塚と云ふ是なり。日本書紀に「歴常陸国、至甲斐國、居于酒折宮、居此宮以靫部賜大伴連遠祖武日也」と見ゆ、此れ弓削は右の靫部の名の遺れるなるべし、(ユキベはニゲと約れり)又塚の南なる山足に係りて、里人ゴヨウギと唱ふる地あり、元禄の打量帳にはコヨギと書げり、是れも古き訛の遺れるなり、(甲斐叢記)慶長中徳川氏より社領を寄附ありしが、明治4年上地し、同6年郷社に列す。社殿は本殿、拝殿、参籠所より成り、境内2032坪(官有地第一種)にして「神庭檜柏の老木大さ四五抱斗の枝間に穴あり、数人を容る可し、又吉備公手植の松とて蒼翠愛す可きあり、昔逸見冠者義清通夜の時、詠せし歌とて古社記に載せたるは、 おのつから心もきよしみしめ縄 弓削の社のかみがきのうち 又其後徳川家康彼松を覧て賞誉せしより、御詞の松と唱へなせしと云ふ。(甲斐国志同叢記) 明治神社誌料 |