佐久神社
さくじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】佐久神社 甲斐国 八代郡鎮座

   【現社名】佐久神社
   【住所】山梨県笛吹市石和町河内80
       北緯35度37分44秒,東経138度36分45秒
   【祭神】天手力雄命
   【例祭】10月16日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】雄略天皇元年3月の創建とする

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀
   【社殿】本殿
       拝殿・神楽殿・手水舎

   【境内社】

富士見小学校東に鎮座する。
昔一面に湖水状だったこの地を、岩裂、根裂の両神が水を落として田や畑を興したので、雄略天皇の時、当時開闢の祖神として現在地にまつり佐久神社と称した。


佐久神社(県指定文化財)

当社は、甲斐国の開闢祖神として仰かれた岩裂・根裂の二神と天手力雄命を、雄略天皇の時代に国の中央にあたる現在地に祝祭したといわれ、平安時代(十世紀初頭)わが国最古の官社一覧表である延喜式神名帳に甲斐国の式内二十座に登録されている。
 社殿は、文久2年(1862)に改築されたものであり、梁行三間桁行三間の総欅唐破風造檜皮葺で、江戸期神社建築の優れた技法を集め、屋根組みと彫刻の造形美はその極致に達している。
 昭和33年本殿と神殿が県指定文化財となった。
 祭典は、春季大祭(4月3日)、秋季大祭(10月16日)が執行され、砂原太々神楽(町指定無形文化財)が奉納される。
所在地 石和町河内80番地

社頭掲示板



佐久神社本殿

山梨県指定有形文化財
佐久神社本殿付神額
昭和33年6月19日指定
東八代郡石和町河内
佐久神社所有
 三間社流造、正面一間に唐破風付向拝を設け、桧皮葺であった屋根は現在銅板葺としている。
 社記には「昔いちめんに湖水状だったこの地を、岩裂、根裂の両神が水を落として田や畑を興したので、雄略天皇の時、当時開闢の祖神として現在地にまつり佐久神社と称した。」とある。
 創立は古いが、本殿そのものは明治の少し前、文久2年(1862)に建てられたもので、指定理由は本殿周囲の優れた彫刻であって、この点においては他に例が少ない。

社頭掲示板



佐久神社

延喜式社
郷社佐久神社由緒
所在地 山梨県東八代郡石和町河内80
一、祭神 天手刀雄命 岩裂神 根裂神 合杞
一、縁起 當国開闢ノ祖神トシテ一国中央ノ現地ニ雄略天皇ノ御宇祝祭シ醍醐天皇ノ御宇延喜年中當国二十座ノ式社二列セラル
一、氏子 河内・今井・砂原・井戸・東油川ノ五区
一、本殿 文久2年改築竣功 昭和33年6月19日有建第二号ヲ以テ「本殿並ニ神額」山梨県指定有形文化財ニ指定
一、例祭 春季大祭 4月3日 
     秋季大祭 10月16日。

社頭掲示板



山梨県指定有形文化財

佐久神社本殿付神額
昭和33年6月19日指定
笛吹市石和町河内
佐久神社所有
三間社流造、正面一間に唐破風付向拝を設け、桧皮葺であった屋根は現在銅板葺としている。
社記には「昔いちめんに湖水状だったこの地を、岩裂、根裂の両神が水を落として田や畑を興したので、雄略天皇の時、当時開闢の祖神として現地にまつり佐久神社と称した。」とある。
創立は古いが、本殿そのものは明治の少し前、文久2年(1862)に建てられたもので、指定理由は本殿周囲の優れた彫刻であって、この点においては他に例が少ない。
昭和49年2月1日
山梨県教育委員金
笛吹市教育委員会

社頭掲示板



佐久神社

社記に曰く、雄略天皇元年3月27日勧請、醍醐天皇の御宇延喜年中当国二十座の式内社に列せられる。又曰く、上古当国が湖沼なりし時、天手力雄命が大岩を裂いて水を涸らし現在の地となしたので、当国開梱の祖神として一国の中央の当地に奉斎す、と。社頭に中心の要石あり。本殿は文久2年に改築、昭和33年山梨県有形文化財に指定されてゐる。

山梨県神社庁



佐久神社

佐久は假字也○祭神手力雄神、(風土記)○上向山村に在す、今大宮明神と称す、(名勝志)例祭月日、
○惚國風土記六十二残欠云、八代郡佐久神社、(或避社)圭田六十七束三毛田、雄略天皇2年戊戌6月、始所祭手力雄神也、有神家巫戸等、6月己午日、毎年備弓矢及鉾行神事
甲斐名勝志云、河内村にも佐久明神の社あり、何れの頃か此地より遷し祭るなるべし、
類社
但馬國氣多郡佐久神社

神社覈録



郷社 佐久神社

祭神 天手力雄命
創建は社記に、「雄略天皇元年3月27日勧請延喜式内の社なり」と云へど、社記の外微証なし、
甲斐国志に云く
「佐久明神、(河内村)御朱印社領七石二斗、社地神主屋敷若干、河内、大間田、増利、砂原、井戸、油川、今井、高橋、唐柏、九村の鎮守にて神事等旧規を存せり、正月20日奉射の神事あり、6月晦砂原村旅所へ神幸ありて、夏越の祓を修す、前一日茅ノ輸を造り、同社の諸村を持廻れぱ、家々皆綿、域は苧麻を掛け以て禊祓の代りとす、之を名付けて綿掛の神事と云ふ、9月9日神輿にて九村へ幸す、又此邊に七釜の御手洗とて清泉あり、其内社邊の宮川より西南に里人の呼んで御釜と云ふあり、人其地を過ぐれば、水暴かに湧騰して細砂浮起す、甚奇観なり、其深さ測る可からず、大旱にも涸るゝ事なし、流末は数町の田に漑ぐ可し、神宝には神系図一軸、古刀一口を蔵せり、又井戸、東油川両村に神幸の時休息する所あり、除地なり、神主は抽那右近なり、其先大坂御陣へ参謁の時、護身の符となしし物、及駿河大納言殿に拝謁の時、頂戴せりとて御盃、小硯箱等を蔵めたり、」
地名辞書に「小石和、今井、河内。砂原、東油川等を併せ富士見村と改む八代郷の西にして云々』と見ゆる地域にして、古の小石和筋に当れり、以て共の古邑たるを証すべし、但佐久神社なりと云へるは、充分の証左なしと雖も、本社の古社たる事は疑ふべくもあらず、明治6年郷社に列す。
社殿は本殿拝殿の二宇を有し、境内1189坪(官有地第一種)あり、

明治神社誌料



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