保健センターに南接して鎮座する。 もと現社地の北東約四町の古宮に鎭座していた。 のちに現在地より後の山の上、山上御殿に遷座し、さらに天文13年(1544)8月、領主向山出雲守がトして現社地に社殿を造営遷座した。 |
由緒 佐久神社由来記(略記) 祭神向山土木毘古王(むこうやまとほひこおう)は、彦火々出見命の後裔にして、日向の国高屋御殿にて御誕生せられ日向土木毘古王と号せられた。長じて第二代綏靖天皇の大臣となる。後に甲斐の国造に任命され臣佐々直武長田足円後辨尼その他衆多の臣、及び千人の人夫を引き連れ甲斐に御入国せられる(BC561年)。 その頃甲斐の国の中央部は一面の湖であり、この湖水を疏導する為土地の豪族苗敷に住める六度仙人(去来王子)姥口山に住める山じ右左辨羅などの協力を得て南方山麓鍬沢禹の瀬の開削により水を今の富士川に落とし多くの平土を得、住民安住の地を確保した。 その功績は偉大であり甲斐の大開祖として崇められた(工事着手BC554年3ヶ年後完成)。王は第四代懿徳天皇4月14日薨去せられ(BC472年)大宮山古宮の地に奉葬す後に雄略天皇(BC458年)土佛築山に改葬せられる。今の天神山古墳之なり。 崇神天皇8年BC90年2月3日甲斐の国大開祖向山土木毘古王をまつるため国祭を以て宮殿が造営なされ佐久大明神と号せられる。(大宮山古宮の地)同年3月3日正一位を賜り正一位大明神となる。 神名については旧記に佐久大明神の他に大宮大明神、蹴裂大明神、弓手力雄神、又手力雄神等種々見えるが手力雄に因んだものは、王生前に手力雄神を崇敬し常に心で祈願していたと言う関係と思われる。延喜式の撰文に見られる神名は佐久の神けさくの神文化11年(AD815年)の甲斐国誌は神名手刀雄神としてあるがこれは誤りである。 社殿については年代不詳であるが当初の古宮の地より社後の山上御殿に遷座、そして天文13年領主向山出雲守が社殿を造営、現在の地に遷座せられる(AD1545年)。社後の山上御殿の頃、大宮大明神と号されたもので世尊寺三位の書といはれた極めて貴品の高い神額が保存されている。又、延喜式に列したのもこの頃である(AD927年)。 本殿は嘉永3年起工、同6年竣工(AD1719年)で、改築されたもので中道町指定の文化財である。延喜式神名帳所載については大日本神祇誌に曰く、「太古海水国内に泛濫し佐久神乃ち巌を蹴り裂き以て之を疏導し始めて平土を得たり故に之をまつりて、けさくの神といふ今上向山佐久の地に在り大宮明神と言う。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
佐久神社 彦火火出見尊の後裔向山土本毘古王は媛靖天皇の勅命により国造として甲斐に入国一面の湖水を切り開き平土を得、住民安住の地を確保した功績は偉大なるものであり、甲斐の大開祖として崇められた。崇神天皇8年向山郷大宮山に國祭を以て宮殿を造営され、佐久大明神として祀らる。社殿は其後山上御殿に遷され大宮大明神と改称された(年代不詳)。天文13年に至り領主向山出雲守今の地に社殿を造営され遷座す。本殿は嘉永6年の造営(市指定の文化財)明治初年郷社に列す。延喜式神名帳所載については、大日本史神祇誌に曰く「佐久神社八代郡今在上向山村佐久之地曰大宮明神。太古海水氾濫国中佐久神乃蹴裂山巌以疏導之始得平土故祀之日靂霹神云」と。其の他保存物、旧神領大宮大明神の五字は世尊寺三位の書。 朱塗りの木箱 蓋表書 甲州八代郡中郡筋向山村 正一位大宮大明神幣帛 裏書 享保3年4月26日 神祇管領吉田兼敬 山梨県神社庁 |
佐久神社 佐久は假字也○祭神手力雄神、(風土記)○上向山村に在す、今大宮明神と称す、(名勝志)例祭月日、 ○惚國風土記六十二残欠云、八代郡佐久神社、(或避社)圭田六十七束三毛田、雄略天皇2年戊戌6月、始所祭手力雄神也、有神家巫戸等、6月己午日、毎年備弓矢及鉾行神事 甲斐名勝志云、河内村にも佐久明神の社あり、何れの頃か此地より遷し祭るなるべし、 類社 但馬國氣多郡佐久神社 神社覈録 |
郷社 佐久神社 祭神 手力雄命 大宮比売命 創建は雄略天皇御宇2年6月の勧請に係り、(社記)八代郡の官社(延喜式)たり、一に大宮明神と称す、向山庄の総鎮守たるを以てなり、御朱印社領十九石四斗余、(或は圭田六十七束二毛卜モアリ)村内に佐久の旧號存せり、(社記、当国風土記、神祇志料、神社覈録、寺社領員数記)河内村にも佐久神社あり、何れの頃か此地より移し崇りしなるべし。 上代は今の社地より艮位四町許の古宮と云ふ所に移し奉り、天文13年8月領主向山出雲守、又今の地をトして殿含を営作せりと云ふ、古伝に、本州上古は湖水なりしを此神南山の霊石を裂き開きて水を疏通し給ひし故に、佐久明神と称すとあり、神殿の額、大宮大明神の五字は世尊寺三位殿の書なり、正月17日的神事6月晦(夏越)9月29日以上三次を大祀とす、11月上亥日より次の亥の日迄、産子中縄を結ぶ事を禁ずる旧規あり、(甲斐名勝志同国志)其の何の故たるを知らず、今鰍沢にて祀る蹴裂明神は此社の子社なりと、或記に載せたり、往時は毎年鰍沢へ神輿を移して祭りしかど、諸河漲水の障あるを以て止めたりとそ、(甲斐叢記)地名辞書には「佐久神社、今右左口村向山の大宮明神是なり、八代郡の官社にして蓋し山梨郡の金櫻神、巨摩郡蹴製神と同功の神なり、信濃に言ふ所の安曇氏の祖、神氷鉋折命に同じ、(或は疑ふ市川上野の御崎明神こそ、式内佐久ノ神にて、右左口の大宮は表門ならん)とあり、何れにするも式内社たるなり、而れとも今緒書の言ふ所に從ふ、近世に至りても徳川氏の崇敬厚く、朱印社領を寄せられしこと前述の如し。 社殿は本殿、拝殿を有し、境内5151坪(官有地第一種)にして、地域廣澗景色亦佳絶なり、明治の制、郷社に列す 明治神社誌料 |