笠屋神社
かさやじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】笠屋神社 甲斐国 巨麻郡鎮座

   【現社名】笠屋神社
   【住所】山梨県南アルプス市小笠原469
       北緯35度36分39秒,東経138度27分56秒
   【祭神】事代主命
   【例祭】4月第1日曜日 例大祭
   【社格】旧村社
   【由緒】治承年間武田信義神領寄付
       天文年間大和川洪水のため流亡
       慶長年間神領寄付

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿
       拝殿・神門

   【境内社】天照皇大神社

滝沢川南岸に鎮座する。
当地を「御所庭」といい、小笠原長清の館跡と伝えられている。


由緒

起源は詳らかではないが延喜式に巨摩郡四社の一を笠屋神社とするとあるのを見ればそれ以前に勧請したものであることが明らかである。
往古は朝廷から御下降の神田があったと伝えられている。治承年間武田太郎信義三百二十貫文神領寄付があったが、天文年間大和川洪水のため流亡して河原となった。
その後慶長年間四奉行桜井安芸守外三名の黒印状を以て神領二石及び社地一千九坪の寄付があった。
後徳川家光朱印状を以て神領二石及び社中竹木諸役の免除があり、爾来徳川氏代々朱印状を以て寄付があったが、明治4年に上知した。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




笠屋神社の由来

鎮座地は、小笠原的場469番地。祭神は、事代主命・大鷦鷯命である。
 起源はつまびらかでないが、延喜式に「巨摩郡四社の一を笠屋神社とす」とあり、それ以前に勧請したものであろう。また、天文年間大和川洪水のため流亡して河原となった等の言伝えもあるという。
 三輪明神の御幸祭は、往時より旧上宮地・小笠原・下宮地の三カ村合同の公祭で西御幸とも呼ばれこの地方の春の大祭だが、そのおり神輿は、小笠原長清公館跡の「御所庭」に立寄り饗応の式が行われたというが、いつのころからか笠屋神社に立寄るようになっている。また神社の所在地である「的場」も、右の御所庭につづく東隣りにあり弓馬礼法などの師範だった小笠原氏との関係も考えられ興味ぶかい。
 なお、社紋は小笠原氏の家紋である三階菱が掲げられている。
平成4年3月
小笠原長清公顕彰会

社頭掲示板



笠屋神社

笠屋神社社記
鎮座地 中巨摩郡櫛形町小笠原的場496番地
社名 笠屋神社
祭神 事代主命
神紋 三蓋菱
祭日
1月1日 元旦祭
4月由縁日 例大祭
神輿渡御
舞殿にて浦安の舞奏上
10月15日 秋の例祭
11月15日 七五三
由緒 御祭神事代主命は大国主命の御子と座し座し大神の神威は種々の産業の祖神であり五穀豊饒商業繁栄の神として尊崇され 殊には神代の昔 主領ける国土献上等国体の本義の根源たるものとして 仰ぎ尊とばれてる。
皇紀2332年延宝年間310年前に建立産土神として奉斎されたと言う
旧本殿は檜皮葺であったが年を経て腐朽甚だしく昭和42年4月再建された。
 なお、社紋は小笠原氏の家紋である三階菱が掲げられている。

社頭掲示板



笠屋神社

鎮座地 小笠原469番地
社格 3級社
祭神 事代主命・大ささぎの命(応神天皇の御子で仁徳天皇)
沿革
大元の起源は、はっきりしておりませんが、日本で平安時代に大宝律令(701年)がつくられ延喜式神名帳により、日本有数の神社が掲載されております。
そのなかで、「巨摩郡四社の一を笠屋神社とす」とありますので、現在の中巨摩郡下にみると、小笠原の笠屋神社ではないかと推定できるところでございます。
それであれば、この地に勧請されたのはもっと前と言うことになりますが天文(1532〜1555年頃)年間の大和川(現在の曲輪田地区の上流から流れる)の洪水により流失してしまっておりますので、はっきりと記録に残っているものではありません。
櫛形町史によりますと、往古は、朝廷から御下降の神田があったとも伝えられております。また、治承(1177〜1180年頃)年間武田太郎信義から320貫文の神領寄付があつたこと、その後の慶長(1600〜1610年頃)年間四奉行桜井安芸守他3名の黒印状を以って、神領二石及び社地1090坪の寄付があったこと、慶安(1644〜1652年)年中徳川家光朱印状を以って神領二石の寄付があったことなどが記されております。
現在の本殿は、昭和42年に再建され、拝殿については、平成6年に小笠原の皆さんにより改築がされておりますが、拝殿改築の際、その前の拝殿について調べたところ、正徳4(1720年頃)年に改築した事が記された内容のものが探し山されているところでもございます。また、神社の事務を執る社務所につきましても、昭和44年に建設されたところでございます。
また、境内地に鎮座します御所天神につきましては、小笠原小学校に所縁がありまして、かつて19258年・大正14年小笠原小学校改修にあたり、グランドから出土した天神さんを祭祀したものでございます。この天神さんは、昭和8年には改めて京都の北野天神さんから御霊をいただき、小学校や生徒の守り神として祀つてきたところですが、戦後の政教分離により学校から離れてしまい、最近では大分老巧化してしまい、心ある人の胸を痛めていたところでもございます。平戒14年有志の手によりまして、まさに天神様としてふさわしく、小笹原小学校隣地からこの地にお移りしていただいたものでございます。
神社のご祭神は、大国主の命の子供にあたる事代主の命ですが、実にご神徳が厚く特に商売や事業に強い力を表す神様ですので、この小笠原の地に祀られるには最適な神様だったのではないでしょうか。
「事代」とは、「言を知る」といった意味があります。名前の由来からも人と神を繋ぎ、かつ、人の言葉から人の祈りや悩みを感じてとっていただける神徳の高い神様であると窺えるものでございます。
祭りは現在では、4月10日前の日曜日、古くから山梨県を東と西に二分した大きな祭りの一つとしてあります西御幸祭として斎行されております。
10月15日には、秋の例大祭、11月15日七五三参り、お正月には元旦から大勢の老若男女の参拝があるところでございます。
所縁ある主な神社には、島根県の美穂ケ先に美穂神社、静岡県に三島大社などがございます。

社頭張り紙



笠屋神社

起源は詳らかでないが延喜式に「巨摩那四社の一を笠屋神社とする」とあるのを見ればそれ以前に勧請したものであることが明らかである。往古は朝廷から御下降の新田があったと伝へられてゐる。治承年間武田太郎信義三百二十貫文神領寄附があったが天文年間大和川洪水の爲め流亡して河原となった。其の後慶長年間四奉行桜井安芸守外三名の黒印状を以て神領二石及社地1090坪の寄附があった。後慶安年中徳川家光朱印状を以って神領二石及社中竹木諸役の免除があり爾来徳川氏代々朱印状を以って寄附があったが明治4年上知した。

山梨県神社庁



御所天神

現在、小笠原小学校の建てられているこの付近は地名を「御所庭」と云い、中世小笠原長清公の館のあったところと伝えられている。
小笠原小学校は、大正11年から13年にかけて、この地に移転新築されたか、この間、校庭の整地なとに職員児童はもちろん区民こぞって参加協力した。大正12年、この作業中に敷地の西北方の塚に埋もれた天神宮跡を発見、これをお祀りしたのが御所天神宮である。また、それが舘の乾(西北)の方にあるところから「乾の天神」とも言われたという。
なお、毎年四月に行われる御幸祭(西御幸とも言う)には、、往昔には神輿はかならず御所庭に立寄り饗応の式をあげるのを例としたという御所庭は、その後数度の水害のため館跡も流され原野と化したものと言い伝えられでいる。
小笠原長清公顕彰会

社頭掲示板



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