諏訪神社
すわじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】笠屋神社 甲斐国 巨麻郡鎮座

   【現社名】諏訪神社
   【住所】山梨県北杜市須玉町若神子3282
       北緯35度47分33秒,東経138度25分10秒
   【祭神】建御名方命
   【例祭】10月第1土曜日 秋季例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】貞享5年(1688)9月28日造営
       明治6年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】巨石
   【祭祀】江戸時代は「諏訪神社」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿・神楽殿・神門

   【境内社】

国道の西に鎮座する。
神社後の山上に巨石(宿借石)がある。


由緒

延喜式所載の笠屋神社と伝い往古宿りの神事ありしによる。一説には駒井村の当麻戸神社を下の社、穴山村の穂見神社を中の社、当社を上の社(笠屋)と称したとも云う。当社は新羅三郎義光及び黒源太清光の祈願所なり、御朱印社領3石4斗社中にその霊を祀り義光明神という、神社後山上に巨石(宿借石)あり、大石神社ともいう、本殿内に貞享5年9月28日建立の棟札がある。
特殊神事として申歳と寅歳の7年目に御柱祭を行い、御柱二本を境内に建立す、里曳きには氏子の男女老若を問わず奉仕し、盛大に執り行われる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




諏訪神社

諏訪神社 旧郷社
祭神名 建御名方命
鎮座地 須玉町字小林3282番地
例祭日 10月5日、祈年祭5月5日
特殊神事 申歳と寅歳の七年目毎に御柱祭
御由緒 延喜式所載の笠屋神社なり。往古笠宿りの神事ありしに因り起る。又一説に穴山村に穂見神社あり之を中之社と称し、駒井村に当麻戸神社(尾比礼社)あり之を下之社と称す
当社笠屋の笠は上之社の意なり。
当社は新羅三郎義光及び武田の武将黒源田清光の祈願所なりとの由。御朱印領三石四斗、社中に其の霊を祀り、義光明神と云う。又祠後大岩の上に圭角の巨石あり、大石神社とも云う。
明治6年郷社に列し、同41年御崎神社を合祀す。現在の本殿は貞享5年9月28日の建立なり。

社頭掲示板



諏訪神社

延喜式所載の笠屋神社と伝へ、往古笠宿りの神事ありしによる。一説には駒井村の当麻戸神社を下之社、穴山村の穂見神社を中之社、当社を上之社(笠屋)と称したとも云ふ。当社は新羅三郎義光及び、黒源太清光の祈願所なり、御朱印社領三石四斗、社中にその霊を祀り義光明神と云ふ。又社後山上に巨石(宿借石)あり、大石神社とも云ふ。本殿内に貞享5年9月28日建立の棟札がある。

山梨県神社庁



諏訪神社

社記に延喜式所載の笠屋神社なり。笠屋と称するは往古笠宿りの神事ありしに因り起る。又一説に此れより南穴山村に穂見神社あり之を中の社と称し、尚南駒井村に当麻戸神社(尾比礼社と伝う)あり、之を下の社と称す。
而して当社号笠屋の笠は借字にて、方言に上を加佐と云えば即ち上の社として笠屋と称え来れりと記し、甲斐国志には若神子村諏訪明神は御朱印社領三石四斗、社地七千八百坪、新羅三郎祈願所の由、社中に其の霊を祀り、義光明神と伝う、祠後大岩の上に圭角の巨石あり、之に因つて大石神社とも伝う、義光奉納の馬具とて轡一口を伝えて神宝とすと載せてある。
此れの社の南の山の中腹に新羅窪と云う所あり、是れ義光明神の旧社地なりとぞ。武田家の将黒源太清光の祈願所とも伝う。創立年代は往古村大火に類焼確たる記録なきも所蔵の棟札に次の如くあり。
棟札 諏訪大明神御神殿御建立 貞享5年辰年9月28日 神主中田右近正三射出雲守行之
当社東南の山上に若神子城墟あり、東より北は七里岩の上の片山、八ヶ岳の麓の崗岩を擁し、地堅固にて又四方に達する便よき地なり。
此の地は往古日本武尊の御子等の封を給 わりし所ならんか。相伝えて云う新羅三郎義光此の城を築きたりと甲斐叢記等に見えている。
明治6年郷社に列し、同40年御崎神社を合祀した。

峡北神社誌



「ほくと山城の里」

大治5(1130)年、常陸国(茨城県)から甲斐国に配流となった源義清・清光親子の土着は、甲斐国に大きな歴史のうねりをもたらしました。甲斐源氏の誕生です。
清光(1110〜1168)は、御牧(馬を飼育するための官営の牧場)に近い逸見(八ヶ岳南麓の台地一帯を指す古い地名)に目を付け、ここを本拠とし、逸見清光と名乗りました。清光が本拠とした北杜市域には、若神子城跡(古城・南城・北城)、谷戸城跡、源太ヶ城跡のような山城のほが海岸寺、正覚寺、長泉寺といった寺院まで、初期甲斐源氏にまつわる伝承をもつ旧跡が多くあり、戦国大名武田氏に繋がる甲斐源氏はここから甲斐国全域に広がりました。 八ヶ岳南麓台地をはさむ釜無川・塩川沿いには、諏訪あるいは佐久方面へ抜けるための街道が発達しており、境を接する信濃(長野県)の武士団と戦いが起こるとまず初めに被害を受けるのが八ヶ岳台地でした。街道沿いに多くの山城が築かれているのはそのためで、そこを本拠とする武川衆・津金衆といった地域武士団の防衛拠点となりました。また、川沿いの見通しのよい地形を活かして烽火台網が整備され、情報は武田氏の本拠府中(甲府)に集めたと考えられています。
天正10(1582)年、武田氏滅亡後の甲斐国の領有をめぐり徳川家康と北条氏直が争った天正壬午の戦いでは、信濃側から甲斐に侵入した北条方の本陣として若神子城(北城)が築かれました。北杜市域は主戦場となり、この時いくつかの城が北条氏により修築されたと推測されています。
山梨県・北杜市

社頭掲示板



若神子城

若神子城は「古城」あるいは「大城」とよばれる遺構を中心に、東に北城、湯沢の西に南城の三ヶ所からなる山城の総称である。連郭式といわれる中世の古い形態を残ず山城で、新羅三郎義光によりて築かれたと云伝えられている。「甲斐国志」に「若神子、多麻庄二属セリ。天正壬午8月ヨリ北条氏直本陣ヲ居キシ処・・・」とある。
即ち、天正10年(1582年)武田氏滅亡后、信州から侵攻した北条氏直の相模模勢と家康が卒いる徳川勢が対峙した時、古城に篭った北条軍が築構した藁研掘が主郭部から二ヶ所、発掘調査によりて、検出された、更に主郭部の東端から厚く焼土が堆積した跡が発見され、南端部からは見張台の跡と思われる柱穴と掘り方も検出された。往時「塩の道」ならぬ「のろしの道」の情報、通信拠点としての若神子城に、つるべ式狼火台を復元し、戦国の情報伝達を今に伝え、生きた歴史教育の一助になることを願います。

社頭掲示板



郷社 諏訪神社

祭神 健御名方命 稻荷大神
社記に云ふ延喜式所載の笠屋神社なり、笠屋と称するは、往古笠宿りの神事と云ふ事ありしより起る、一説に此より南穴山村に穂見神社あり、之れを中の社と称へ、其又南駒井村に当麻戸神社(尾比礼社と云ふ)あり、是を下の社と称ふ、而して当社号笠屋の笠は借字にて、方言に上を加佐と云へば、即ち上の社として笠屋と称へ来る云々、扨又当社は新羅三郎の祈願所なりと伝ふ、(社記)諏訪明神(若神子村)御朱印三石四斗余、新羅三郎祈願所の由、社中に其霊を祀り義光明神と云ふ祠あり、大石の上に圭角の巨石あり、此に因て大石神社とも云ふ、義光奉納の馬具とて轡一口を伝へ以で神宝とす、此社の南の山の中腹に新羅窪といふ所あり、これ義光明神の旧社地なりとそ、当社東南山上に若神子城址あり、村東より南へ繁りで玉川の深き流を帯び、西より北は七里岩の上の片山、及八岳の麓の御轡を擁し、地堅固にて又四方に達する便よき地なり云々、此地は古昔大和武命の御児等の封を給はりし処ならんか、尚後の考を侯つ、相伝へて云ふ新羅三郎義光此城を築きたり云々と、甲斐國志同叢記等に見ゆ、式内社としては其証拠甚覚束なければ尚考ふべし、明治6年郷社に列し、同40年御崎神社を合併す(社記)
社殿は本殿、拝殿、神楽殿、随神門を有し、境内960坪(官有地第一種)にして、景致頬る幽雅なり、

明治神社誌料



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