笠原山福昌院の隣地に鎮座する。 境内からは、南アルプスが一望出来る。 もと、式内・笠屋神社であったが、長保年間(999−1004)笠原山福昌院の配下に入り、熊野本宮、新宮、那智、白山、箱根の五社を祀るようになった。 本来は修験的な信仰に発する社と思われる。 |
五社神社 社記に曰く熊野本宮、新宮、那智、白山、箱根の五社を祀る。勧請年月、沿革は詳かならず。本殿は室町時代の建造物と見られ、境内と寺院の関係より延喜式内社と見られ創立は貞観年間と見られる。長保年間笠原山福昌院の支配に移り、笠屋神社の社名を失ひ、現在五社神社。 山梨県神社庁 |
福性院の木造薬師如来坐像 明野村指定文化財 福性院の木造薬師如来坐像 昭和47年3月1日指定 明指文第二号 笠原山福性院は御岳山弥勒寺末、真言宗新義智山派の寺院である。寺伝は、貞観年間(九世紀後半)、慈覚禅師の開山、かつて茅ケ岳南麓の女沢庄寺ケ窪なる地に所在し医王山松霊院を称したと伝える。文正元丙戌年(1466)8月、信濃守護小笠原大膳大夫実道を中興開山に講じ、天正2年(1574)、住持盛円が現在地に伽藍を構えたという。 御岳山弥勒寺は、金桜神社(甲府市御岳町)別当で御岳山上ノ坊とも称した。社僧六供を率い金峰山修験の拠点であった。延宝7年(1679)の金桜神社文書は、福性院が弥勒寺の隠居寺であったと伝える。福性院に隣接する五社神社にはかつで熊野本宮、新宮、那智山、箱根、伊豆の各権現が祀られ、本地仏を描いた天正8年(1580)銘の御正躰五枚が現存する。 本尊の木造薬師如来坐像は像高85cm、木造寄木造で、胎内には、「願主金剛仏子長念 賢雄 キリーク 作者常陸法橋 仏心 千時応仁3年巳丑3月の24日」と墨書される。頭部は角張ってやや大きく、肩幅も広く、両手をゆったりと構えて堂々とした趣がある。側面の奥行きも充分で、どっしりとした量感が示される。 しかし、面貌に刻まれる目鼻立ちは小さめで、間近に視線を落とした表情には、繊細な雰囲気が漂う。衣は薄くやわらかい布の質感をよく表し、浅く数を抑えた衣文の表現も軽やかである。こうした本像の形式や表現、構造、応仁3年(1469)銘から、室町中期の正統な造像の様式を示す作例であるといえる。 福性院境内の池端には「鶴亀の松」と呼ばれた樹齢300年余といわれる赤松二本があり、明野村文化財に指定されていたが、虫害のため平成2年と4年に相次いで粘死した。 平成14年3月29日 明野村教育委員会 社頭掲示板 |