笠原神社は廃絶されているが、熊野神社の地が旧地という。 『特選神名牒』に「今按甲斐國志に笠屋と云処、社地二十坪、無税地にて笠屋神社の旧蹟と云傳ふ。上世此地に笠屋郷と云村里ありしと云ひ、今同村産土神熊野神社に笠屋神社の正応4年の棟札を藏せるが、其文に笠屋社と記せりとあるをもて、本社の旧趾なること疑なかるべし。」とある。 『式内社調査報告』に「正応4年(1291)の棟札の信憑性についての疑問も残るが、江戸期に「笠屋」の名がそのままみられるのは巨摩郡中郡筋の上小河原の「熊野権現」に続く同村の「笠屋天神」の地なることをみ、それより今この熊野神社付近を旧趾とみて置きたい。」とある。 境内社に「笠屋天神社」があることになっている。現地に本殿左と、境内右手に末社の建物あるが、何れが笠屋天神社か不詳。 |
熊野神社(旧村社) 鎮座地 甲府市国母4−2−13 祭神 伊弉冊命 速玉男命 事解男命 例祭日 10月17日 境内地 1692坪 由緒沿革 当社は大同806年より810年中の勧請で国の母の神と称す。甲斐国四所の霊場 巨摩郡小河原の熊野 八代郡八代の熊野 山梨横井の熊野 都留郡岩殿の熊野といわれた中郡最初の鎮座の一社である。 本宮 新宮 那智の神を祀る。後、武田太郎信義造替 正慶年間1330年高畑太郎次郎時盛修造 明応1493年の頃再建奉行は地頭武田八郎信恵とのこと 慶長8年黒印神領二石三斗八升を寄進された 中世以来大洪水度々にて社地拝殿を損失延宝4年丙辰1667年造替とあるがやはり相当の古社であった。 水害は往古は荒川の流れ小河原三村上村の北を経て、増坪村境を東へ突流すと云う。太永2壬午年大雨の時武川筋蘆倉村大草履の狭戸山崩れて御勅使川上流の水一時に落ちて釜無川を働突し中郡へ押出し激水東方笛吹川に合し中郡の間渺々として大湖の如くなりし由。 其節神田荒亡し神人等皆離散せし由其後天正慶長元和の間も数度の大水にて社頭漸々衰微すと云う。現在はこの本殿と拝段二棟が残る。当本殿は三間社入母屋造り向拝一間屋根亜鉛板葺という建物で身舎柱は丹柱、向拝社は几帳面つきの角柱である。身舎は内陣と外陣に分れる。後白河院奉納の幣串、武田家奉納の金幣、秋山越前守虎康奉納の武具馬具下山方奉納の丹鏡等あった。 平成10年11月吉日 熊野神社総代表 成澤松夫 書 社頭掲示板 |
神木樅の根 甲斐国誌によると、当熊野神社は、国の母神の宮と称し、本県四所の斎場の同期の鎮座で、巨摩郡小河原の熊野として中郡最初の宮で、本宮、新宮那智宮を三所に祀ったといわれる。御神木はその折、神宮によりお手植されたといわれ、度々の水害で社頭衰微すれど、隆々と育ち巨木となり大人四抱えに達し、風雪に堪えて地域の信仰を一身に集めたが、昭和33年の台風により倒れ、その使命を終えた。氏子一同相評り二代目御神木を奉納植樹し、ここにその成木を見るにつけ初代神木を世に出さんと志し、奉仕の厚き集積でここに完成を見た。時代を想い太古の歴史に心を馳せてその永き隆盛にあやかりて不老長寿、家内安全、諸々の守護神として祀り永くその徳を称える。撰文 河西富夫 平成4年10月吉日 秋季祭典・氏子一同 社頭石碑 |
熊野神社 社記には大同年中(806)に勧請国の母神の宮と称すとある。後武田太郎信義造替、正慶年間(1332)高畠太郎次郎時盛修造、明応(1492)の頃再建奉行は地頭武田八郎信恵とのこと。慶長8年黒印神領弐石三斗八升を寄進された。中世以来大洪水度々にて社地拝殿を損失、延宝4年(1678)再建が現存、後白河院奉納の幣串、武田家奉納の金幣等あり(甲斐国志) 山梨県神社庁 |
笠屋神社 笠屋は加佐夜と訓べし○祭神在所等詳ならず○惚國風土記六十三残欠云、巨麻郡笠屋神社、圭田四十五束三毛田、雄略天皇4年庚子11月、所祭事代主命也、有神家巫戸等、 甲斐名勝志云、山梨郡等刀村諏訪明神、祭神事代主命也、相傳、延喜式所載笠屋神社也、当社は昔巨摩郡に有しが、何れの頃か此地に奉遷、今神体に事代主命の像あり、信濃國下諏訪社は事代主命を祭ると云、』又云、巨麻郡徳行村笠掛明神、祭神事代主命也、相榑延喜式所戴笠屋神社也ど云、両社何れか是なる事考へ分ちがたし、〇参考云、中下條村に在す、所祭事代主命也、諸説未熟れかしらず、 神社覈録 |