諏訪大神社
すわだいじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】倭文神社 甲斐国 巨麻郡鎮座

   【現社名】諏訪大神社
   【住所】山梨県甲斐市宇津谷1016
       北緯35度41分35秒,東経138度28分49秒
   【祭神】建御名方命
   【例祭】10月16日 例祭
   【社格】旧村社
   【由緒】建保5年(1217)造営
       元亀2年(1571)造営

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「宇都谷諏訪明神」と称していた
   【社殿】本殿
       拝殿

   【境内社】

御神体の一尺五寸の石神に「倭文神社」、その裏に、「大同二年」とあるとされている。
日本武尊による創建と伝えられている。
線路近くの山裾に鎮座する。


諏訪大神社

宇津之谷諏訪神社由緒
 正しくは、穂坂惣社拾五社大明神宇津之谷諏訪大神社と謂う。
 第十二代景行天皇御名を大足彦忍代別尊と言い第三皇子小碓命又の名倭億久名命が倭建命と言われ三世紀末から四世紀始めにかけて、大和朝廷のために名を馳せ活やく甲斐に入り、甲斐国志による、北山・武川・逸見の賊を平定して、宇津之宮村藤塚1016番地に賊徒の再び起らぬよう平穏を祷り倭文神社に伊弉諾大神・伊弉冊大神・天照皇大神・月読媛大神・素戔嗚大神を併せ祀ったのが始まりで、藤塚の西南の地に吉備彦命・大伴武日命と警護の兵を共に、一時期すごしたであろう所を初在家(現初座池)と稱し地名として今に残っている。
奥殿に祀られている石神倭文神社のうらに大同2年(807)とあり建保5年(1217)御修複と元亀2年(1517)武田信玄公再建の棟札と頭椎の剣など御神宝の数々と天正10年3月(1583)織田・徳川連合軍の攻撃を予知して逸早くいづこかに秘匿して、今に残る建保・元亀の棟札はまことに貴重である。又武田信玄公が元亀2年再建のとき武田家の守護神、諏訪大明神と庄内の神々を併せ祀りこの時拾五社大明神と奏され尚信玄公より下された御朱印状が今は行方不明である。御朱印社領壹石九斗余、社地5460坪と慶長8年癸卯3月朔日(1603)家光・慶安2年11月17日(1649)及び貞享2年6月11日(1685)綱吉・享保3年7月11日(1718)吉宗そのほか延享4年(1714)宝暦12年(1762)天明8年(1788)天保10年(1839)安政2年(1855)万延元年(1860)と数多くの徳川幕府より社領安堵の御朱印状が下されている。
 茲に注目したいのは、日本武命が當社を草創したのは四世紀初頭であり平成四年の現在、創建より実に1590余年の歴史を有する貴い古社である。

社頭掲示板



諏訪大神社

甲斐市指定有形文化財(歴史資料)
諏訪神社の棟札二枚
所在地 甲斐市宇津谷1016
指定年月日 平成10年2月27日
棟札とは建造物を新築または改築した時などの記録を書いた板のことです。この諏訪大神社には多くの棟札が残されておりますが建保5年(1127)と元亀2年(1571)の棟札が指定されています。前者は高さ89.3cm幅26.8cmで、「倭文(しずり)神社保坂大明神御修復建保5丑(1217)正月11日」、後者は高さ64.2cm、幅27.2cmで、「大旦那武田信玄再建立(中略)元亀辛未2歳(1571)3月26日」とあり、度重なる修復や建て替えを知ることができる貴重な資料です。
甲斐市指定有形文化財(民俗資料)
諏訪神社の石棒一基
所在地 甲斐市宇津谷1016
指定年月日 平成10年2月27日
御神体として祀られている石棒は、高さ42cm、直径20cm円筒形で上部が丸くなっており、倭文神社大同2年(807)」と刻まれています。
この石棒は縄文時代中期に作られたものを土中から掘り起こし、祀ったのではないかと考えられ、大同2年に銘文が刻まれたという根拠はありませんが、古くから御神体として祀られていたのではないかと思われます。
平成18年10月1日
甲斐市教育委員会

社頭掲示板



諏訪大神社

鎮守社、甲斐國志に、後朱印社領壱石九斗余、口碑の伝ふる所に拠るに、此地主神を保阪明神と云ふ。日本武尊北山逸見武川の地に居せる邪悪の土鬼を征服し、残党の復起せざるやう鎮護の神として倭文神、建葉槌命を祀り、良民初めて安居するを得たり、初在家の名これより起る。武田氏盛時は、頗る巨祠なりしも、天正壬午の兵火に罹りしより規模狭小となれりと云ふ。

山梨県神社庁



諏訪大神社境内の登り窯跡

甲斐市指定史跡
諏訪大神社境内の登り窯跡
所在地 甲斐市宇津谷977
指定年月日 平成14年10月2日
江戸時代後期の登り窯跡で、平成元年11月の山梨県埋蔵文化財センターによる発掘調査によると、長さ約15m、幅約10mで窯内部は両側に甕の口縁部分を垂直に積み重ね、高さ70cm、幅160cm、焚口部から10〜15度程度の勾配となっています。
上部は消滅していますが、竹をアーチ状に組み泥を打ち付けて固めたと考えられています。
出土品から甕やすり鉢、糸尻が35〜45mmの椀などを生産していたものと考えられています。
平成20年1月1日
甲斐市教育委員会

社頭掲示板



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