倭文神社
しずりじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】倭文神社 甲斐国 巨麻郡鎮座

   【現社名】倭文神社
   【住所】山梨県韮崎市穂坂町宮久保字降宮 6051
       北緯35度44分13秒,東経138度29分5秒
   【祭神】天羽槌雄命 天棚機姫命
   【例祭】10月10日 秋季例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創建年代不詳
       明治6年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】元は柳平七夕に鎮座

   【祭祀対象】
   【祭祀】
   【社殿】本殿二間流造銅板葺
       拝殿・神樂殿・樂屋・随神門

   【境内社】神明社、桑宮神社、稻荷神社

穂坂小学校北に隣接して鎮座する。
俗に本社を「降宮大神」と呼ばれるが、それは旧社地(山宮)より現在地へ降(ふ)られたとの伝承よりする名称である。
本社はもと現在地より北東約1.5Kmの柳平に鎭座したが、柳平七夕には現在社殿はない。


由緒

甲斐国所在の延喜式内2O社の一甲斐国志には倭文神社降宮明神とある。穂坂総社といい郷中最も格式高い神社であった。
倭文はしずおりで麻などの繊維を赤青などに染めて横糸とし織った古代織物である穂坂御牧が栄えた頃御牧の役人の妻や娘などが中心となって織った精巧な織物でこれらの女性たちが技芸の上達を祈るために天羽槌雄命天棚機姫命を祀ったのがこの神社の起こりである降宮はおりみやで織宮を意味する、江戸時代に幕府は12石5斗の社領を寄進した。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




倭文神社

甲斐国所在の延喜式内社二十社の一、甲斐国志には倭文神社降宮大明神とある。穂坂総社といひ宮久保、柳平、三ツ沢三村の産神で郷中最も格式の高い神社であった。穂坂の御牧の役人や妻女たちが織った倭文織りの守護神で又産婦の守護神としても崇敬厚い神社である。

山梨県神社庁



倭文神社

倭文は志図利と訓べし○祭神建葉槌神、(名勝志)在所分明ならず、(名勝志云、柳平村に在す、今織女社と称す、』参考云、北山筋宮久保村に在す、降宮神と称す)、
両説未孰れかしらず、

神社覈録



郷社 倭文神社

祭神 天羽槌雄命 棚機姫命
創立年代詳ならずと雖も、延喜式神明帳巨摩郡五座倭文神社なるが如し、祭神健葉槌命又天羽槌命大和葛下郡倭文神社と同神なり、(古語拾遺、神名帳考、神祇宝典)正一位降宮大明神と称す、今宮窪村に在り(旧神祠記、神祇志料)て、澤三村の産神なり、黒印神領捨二石五斗五升、第一華表の跡本村に在り、其地を鳥井原と云ふ、社記に本邦衣服の祖神なり、又産婦の守議神とも称せり、古棟札に穂坂庄総社倭文神社織宮明神とあり、社地は宮窪に属し、山宮は柳原の域に在り(甲斐国志甲斐叢記)など見ゆる古社なり、一説に柳平に織女の祠と云ふ有り、延喜式所載倭文神社なりと、神代巻に倭文神、建葉槌神有、予按常陸風土紀に健葉槌神久慈郡に下りて、麻を造り布を織る事を教へ給ひ、其地を倭文郷と云ふとあるも、倭文は賎織の社なれば、此説に依りて謂ふなるべし(甲斐名勝志)ともあれど、前記甲斐叢記の山宮は柳平村と云へるを思ふに、本社は柳平村ならぬ様聞ゆるなり、また諸書の所説も多くは宮窪に一致せるを見る、尚思ふに、本宮と奥宮と謂ふが如き関係にやあらむ、又或書に降宮即本社を採れるにて、其の説に柳平村の本社を宮久保に移してより、本社は自ら廃絶したるなる可しとあり、亦以て参考とすべし、
社殿は本殿、拝殿、渡殿、庁屋、神楽殿、随身門等あり、境内1786坪(官有地第一種)にして老樹森々、幽邃閑雅なる好社地たり、祠後に松樹大さ五囲なるあり、中間より数幹に分れ御腰掛木と称す、又厳松の三囲なるもあり、明治6年郷社に列す。
宝物一太刀但し甲斐国志に武田氏納と記せる分なり。

明治神社誌料



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