長坂小学校南に鎮座する。 鳥居には十五所大明神諏訪大明神鴛芟ゥ大明神とある。 本来建御名方神を主神として奉齋したところへ、十五所神・受母智神を勧請したと伝えることから、後に穂見神社と称したと考えられる。 大正14年(1925年)3月13日、産土神としての村社から郷社への昇格運動が興り、昭和20年(1945年)に内務大臣の認可を受けたが、その後GHQの占領政策によって神社仏閣の社格は改称されたため、建立した石碑からも「郷社」の二文字は抹消されて昇格は幻となった。 |
由緒 穂見 諏訪 十五所神社 創建年月不詳なるも、文献に依ると延喜式所載の穂見神社なり、往古甲斐の国民多く稲穂を献ず、昭和20年9月10日郷社に列格す。毎年1月14日筒粥の神事が古式厳かに斎行される。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
太々神楽の由来 当神社の勧請並びに建立の年月日に就ては詳でないが今より約千余年の昔、村上天皇の御代に日本全国に領布せられし古文書、延喜式所載の甲斐の国穂見神社こそ、当神社に相違なしと言われている。 穂見神社の祭神は五穀を司る保食(うけもち)の神である所から、古来より氏子一同その年の豊穣を祈願する意味で奉納された舞楽こそ太々神楽の起源であると資料される。 太々とは、盛大又は巌の意味を表わすと共に伊勢太神宮の太々神楽の名称に倣つたものであり、元来は神達の遊びの意と言う。 当神社の神楽も従来は4月3日の神武天皇祭を卜して奉納されたものであり、以来実に350有余年に亘る輝やかしい伝統を誇るもので当神社最大の盛儀である。 社頭掲示板 |
穂見諏訪十五所神社本殿 穂見諏訪十五所神社本殿 管理者 同社 拝殿の裏山、中腹に南面して建てられた本殿は、桁行3.12m梁間1.9mの三間社流れ造りで正面の向拝は一間となっている。 身舎はすべて円柱、斗拱は出組みで、軒支輪が設けてある。 中備えには、彫刻を入れた蟇股を用い、妻飾りは虹梁大瓶束式で破風に懸魚、桁隠しをつける。正面は三間とも両開きの板扉で側面と背面は横張りの板壁である。 三方に擬宝珠高欄つきの縁をめぐらし両側の後端に脇障子をたてる。`向拝は面取り角柱を虹梁でつなぎ両端に木鼻をつけ、柱間には斗拱を二つ置き、その間に三個の蟇股を入れ、ともに丸桁を支え、柱上の連れ三斗の組物から梁行に透し彫りの手挾みを人れる。 向拝の前には浜床を備え、正面に登り高欄つきの木階五段を設ける。この建物は様式・手法・彫刻の意匠から江戸中期の再興と推定され、当町では最古に属する建築で貴重な文化財である。 昭和51年2月10日指定 長坂町教育委員会 社頭掲示板 |
穂見諏訪十五所神社 天然記念物 穂見神社の大欅 所在地 長坂町長坂上条1461 管理者 穂見諏訪十五所神社 この欅は夫婦欅といって一対をなしていたものであるが左側にあった女欅が樹勢衰えついに枯死し夫欅のみが現存している。 この欅は樹齢およそ700年余といわれ幹の周囲5.2mもの巨樹であって、縁結びの、いぼ取りの欅として崇敬され往時近郊の参詣者でにぎわったものである。 無形文化財 筒粥の行事 社記によれば武田信玄の父信虎に筒粥を命じられ、以来今日まで約500年余続いている。 この筒粥は毎年1月14日の夜から15日未明にかけて行われ、その年の穀物野菜養蚕をはじめ、天災、寒暖、雨霜雪、世の中(景気、不景気)等の吉凶を占うもので、近郊の農民はこの行事の結果によって、その年の農事計画を判断することが長い世代に亘って習慣とされてきた。 昭和45年10月1日 長坂町教育委員会 社頭掲示板 |
穂見諏訪十五所神社 創立年月不詳なるも、延喜式所載、甲斐國穂見神社なり、往古甲斐の国民多く稲穂を献ず。諏訪神は甲斐国主武田信虎公によって合祀せられ、社領御朱印四石七斗余を寄進。徳川氏に至り先例により寄進。十五所神は十五所権現とも称せられ、当社別当職として社僧常住せし延宝年間に合祀せる。天文年間武田信虎公より命ぜられたる御筒粥神事は毎年1月14日夜より翌15日に亘り厳修され、今日も執行されてゐる。 山梨県神社庁 |
穂見神社 長坂町指定文化財 天然記念物 穂見神社の大ケヤキ 1970(昭和45)年10月指定 所在地 長坂町長坂上条1461 管理者 穂見諏訪十五所神社 ニレ科ケヤキ属。このケヤキは夫婦ケヤキといって一対をなしていたものであるが、左側にあった女ケヤキは樹勢が衰え祐死してしまい、夫ケヤキのみが現存している。 このケヤキは、樹齢およそ700年余りといわれて、幹の周囲5.2mの巨木で、縁結びのケヤキ・いぼ取りのケヤキとして崇敬され、往時近郷の参詣者でにぎわっていた。 無形文化財 筒粥の行事 1970(昭和45)年10月指定 所在地 長坂町長坂上条1461 管理者 穂見諏訪十五所神社 穂見神社では、毎年1月14日の夕刻から15日の早朝にかけて行われている。 社記によれば、武田信玄の父信虎に命じられたのが始まりで、400有余年の今日でも休むことなく続けられている。 五寸ほどに切った芦をすだれ状1こ編み、束にしてそれぞれの芦に殻頭・野菜・養蚕をはじめ、天災・水・風・雨・霜・景気等の占う種名を決めて、五合の米と五升の水で作った粥の中へこの芦の束を入れ、三合の水を追加しながら煮詰めていく、15日未明に神官立合いのもとで芦を開き粥状になっている米の数で占う。 2003(平成15)年3月長坂町教育委員会 社頭掲示板 |