八幡穂見神社
はちまんほみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】穂見神社 甲斐国 巨麻郡鎮座

   【現社名】八幡穂見神社
   【住所】山梨県中央市布施 2034
       北緯35度36分39秒,東経138度31分36秒
   【祭神】誉田別命 倉稻魂命
   【例祭】10月16日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創祀年代は不詳
       仁安元年(1166)造立
       文安六年(1449)造営
       寛文11年(1671)
       明治初年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「八幡宮」と称していた
   【社殿】本殿二間社流造桧皮葺
       拝殿

   【境内社】

古来布施の郷の総鎮守として崇敬されてきた。
『甲斐国志』に本来布施村八幡宮に上三ノ條村の御崎明神(穂見神社)を勘請したことより八幡穂見神社と唱えるとある。


由緒

八幡穂見神社の創建は明らかではないが、古来布施の郷の総鎮守として崇敬されてきた。甲斐国志は、仁安元年(1166)の棟札の存在と、文安六年(1449)穂坂小次郎光重の再建を伝えている。現存の棟札によれば、寛文11年(1671)以後数度の修理が行なわれたことが知られる。明治初年、郷社に列せられ。昭和21年郷社は廃された。昭和45年5月13日、御本殿が山梨県有形文化財として指定された。
御本殿は、二間社流れ造り、桧皮葺の建築で、随所に和様・宗様・天竺様等各種の手法が混同された折衷様式であって、その建立は古く、幾度かの修理により、本来の品位を損ねてはいるものの、今尚細部に室町・桃山の時代的古風さを残し、古い建築の少ない盆地の低湿地地帯における貴重な建築物である。
去る昭和34四年の台風の為、境内の樹木の多くは倒れ、社殿の損傷甚だしく、昔日の俤なき状態であった。よって昭和47年解体修理を行い、今の姿に復元した。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




八幡穂見神社本殿

県指定有形文化財
八幡穂見神社本殿
昭和40年5月13日指定
中巨摩郡田富町2034
八幡穂見神社所有
八幡穂見神社の創建は明らかでわないが、古来布施郷の総鎮守として崇敬されてきた。「甲斐国志」は、仁安元年(1166)の棟札の存在と文安6年(1449)穂坂小次郎光重の再建を伝えている。現存する棟札によれば、寛文11年(1671)以後数度の修理が行われたことが知られる。
本殿は、二間社流造、桧皮葺で、隨所に和様、宋様、天竺様の手法が混用された折衷様式であるが、再三の修理によって本来の形態を損なっていたため、昭和47年に解体修理を行ない、復原した。古い建築の少ない甲府盆地の低湿地帯における桃山風の様式を伝える貴重な建物である。なお、当神社には旧石鳥居の額束の背面に刻り出された本地仏(梵字の阿弥陀如来)が保管されているが、八幡信仰を研究する上から貴重な資料といえる。
山梨県教育委員会
田富町教育委員会

社頭掲示板



八幡穂見神社

古来布施郷の総鎮守として崇敬されてきた。甲斐国史によると、文安2年(1449)穂坂小次郎光重の再建を伝へてゐる。本殿は二間社流造檜皮葺で、和・宗・天竺の折衷様式で貴重な建物である。昭和40年5月13日県文化財として指定された。又再三の修理により本来の形態を損ねてゐたため昭和47年解体修理を行ひ復元した。

山梨県神社庁



八幡穂見神社

中央市布施2034
八幡穂見神社には、誉田別命、倉稲魂命の二神が祀られている。かつては御朱印五石四斗余をもち、布施郷五ヶ村(布施、上三ノ条、下三ノ条、河西、山之神)の鎮守として崇敬されていた。
『甲斐国志』によると、神社地の外、二ノ鳥居より四町(約436m)ばかりへだてた上三ノ条村境に一ノ烏居場があり、正月17日、7月23日、8月18日、11月朔日に祭典が営まれていた。特に8月の祭には、村西に設けられた相撲場で相撲が行われたことが記されており、往時の盛況がしのばれる。
現存する棟札によると、本殿は寛文11年(1671)に再興されたもので、その後享保14年(1729)、嘉永元年(1848)、明治23(1890)、大正12(1913)に修理が行われている。しばしばの改修にもかかわらず、今なお細部に室町あるいは桃山的な古風を残していることから昭和40年5月に山梨県の文化財として指定を受けた。
平成22年8月
中央市教育委員会

社頭掲示板



八幡穂見神社本殿

県指定文化財 建造物
八幡穂見神社本殿
鎮座地 中央市布施2034
所有・管理者 八幡穂見神社
指定年月日 昭和40年5月13日
神社の創立は明らかではないが、社殿について甲斐国志には「仁安元年大歳丙戊12月3日造立」(1166)の棟札のあった記述があり、さらに、文安六年己巳6月19日(1449)に、地頭穂坂小次郎光重により再建されたといわれている、現存する棟札によると、本殿は寛文11年(1671)に再興されたものである。
本殿の建築は向拝付二間社流造、檜皮葺きで随所に和様、宋様、天竺様等各種の手法が混用された折衷様式で、その建立は古く、今なお細部に室町あるいは桃山的な古風を残している。
何度かの改修がされているものの、古建築の少ない盆地の低湿地帯における室町、あるいは桃山的様式を伝える貴重な遣構である。
平成22年3月
中央市教育委員会

社頭掲示板



郷社 八幡穗見神社

祭神 誉田別命 倉稻魂命
創立年代詳ならず、後花園天皇文安6己巳年6月19日の棟札に穂坂小次郎光重再建立とあり、是より先六條天皇仁安元年丙戌11月3日造立と記せる棟札もあり(社記)甲斐國志に「八幡宮(布施村)上三條村御崎明神を同殿に移し祀る、御朱印社領五石四斗余、(二石五斗余、八幡宮領、二石八斗余御崎領、社地縦七十二歩、横二十七歩、神主屋敷縦四十一歩、横十八歩、一ノ鳥居場(上三條村境に在り)祭禮相撲場、(村西に在り方十五歩)社記に云ふ穂見神社なり、布施郷五村(上下三條、河西、山神)の鎮守なり。文安6己巳云々仁安元年の古棟札あども、文字見え難しと云ふ、正殿唐破風造檜皮葺、拝殿茅葺神門石島居等あり、大祭は正月17日7月23日8月18日11月1日なり、8月の祭には往古より角■あり、神宝鼻高の假面は逍遥軒信綱の刻する所と云ふ、額は良純親王の書なり、神主樋口右京、」と見え、又同書士庶部に「穂坂氏穗叛郷と云ふは、今十九村あり、此郷に由て出でし氏なり、壬午の起請文に、近習衆に穂坂監物、一条衆に同彌助、同彦次郎等あり、常陸介は穴山衆なり云々、一条の過去帳に、明応5年4月5日妙一房萬歳の保阪六郎右衛門の内、第三回忌納之と見えたれば、以前より此邊に在りし姓氏なり」などありて、光重の事跡は伝らざれど、以て穂坂氏の旧族たるを見るべし、又地名辞書に「小井川旧庄名にして河原の西に列び、釜無川の沿岸とす、今小井川花輪村等とす、小井川庄は後宇多院御領目録に収めらる、布施今小井川の大字とす云々」と見えて、鎮座地も亦旧地なりとす、然れども式内社と云ふは其証として見るべきものなく、又諸家の説稲倉なるに一致し居れば、今は採らず、明治6年郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿、随神門を有し、境内101坪(官有地第一種)あり。

明治神社誌料



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