穂見神社
ほみじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】穂見神社 甲斐国 巨麻郡鎮座

   【現社名】穂見神社
   【住所】山梨県韮崎市穴山町石水字稲倉1856
       北緯35度44分58秒,東経138度25分49秒
   【祭神】倉稻魂命 建御名方命 素盞嗚命
   【例祭】10月10日 例祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創立年代不詳
       天正11年(1583)神領五貫三百文
       慶長8年(1603)寄進
       明治6年郷社
       明治42年幣帛料供進指定神社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対】象巨霊石(根の神石とも言う)
   【祭祀】江戸時代は「稻倉明神」「諏方明神」と称していた
   【社殿】本殿流造銅板葺
       拝殿・神樂殿・随神門

   【境内社】

鎮座地・稲倉が示す通り、元は屯倉であったという。本来の主神は倉稲魂神であり。「穂見」の社名はこれより起こったとする。
諏訪大神は、天文年中(1532−55)に勧請、素盞嗚尊は、境内にあった神石に祀られていたものを本殿に合祀したという。
本殿裏に大岩あり。「根の神岩」と称し神体である。大岩には素盞鳴命の神霊が籠もっているという。


由緒

鎮座地   韮崎市穴山町1856番地石水区稲倉
祭神 倉稲魂命             元旦祭 1月1日
   建御名方命       祭日   祈年祭 2月17日
   素盞嗚命             例 祭10月10日
旧御朱印社領 高7石6斗余       新嘗祭11月23日
社地  1836坪   境内地 666坪
            山林  3反9畝
建物   本殿 宝暦3年建立
     随神門文禄2年建立
     鳥居 元禄2年建立
     石橋 文化年間造
社宝   有栖川宮熾仁親王御染筆 外数筆
氏子崇敬者 約2〇〇戸

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




穂見神社

穂見神社 (旧郷社)
鎮座地 韮崎市穴山町1856番地石水邑稲倉
祭 神 倉稲魂命
建御名方命
素盞嗚命 祭 日 元旦祭 1月1日
祈年祭 2月17日
例 祭 10月10日
新嘗祭 11月23日
旧御朱印社領 高七石六斗余
社地 1836坪 境内地666坪 山林3反9畝
建物
本殿 宝歴3年建立(今より約220年前)
隨神門 文禄2年建立(今より約200年前)
鳥居 元禄2年建立(今より約290年前)
石橋 文化年間造(今より約170年前)
社 宝 有栖川宮熾仁親王御染筆外数点
氏子崇敬者 約200戸
御由緒
延喜式記載の古社で逸見諸郷の租稲を収める屯倉の鎮守に祭祀されたと伝えらる。
又稲倉に鎮座するを以て稲倉明神とも称された。
又社地にある周囲十米高さ7米の巨霊石(根の神石)とも言って神体として祭祀している。
素盞嗚命の神霊がこもつていると信仰され固くけがれを忌み嫌い石の前に正座して拝したという。
又薬草奏進社とも言われている。
明治6年郷社に列し明治42年幣帛料供進指定神社となるも戦后この制度は廃された。
宝物殿昭和53年秋建立す。

社頭石碑



穂見神社

延喜式所載の古社で逸見諸郷の粗稲を収める宮庫の鎮守に祭祀されたと伝へる。又社地にある周囲10mさ7mの巨霊石(根の神石とも言ふ)と言って神体として祭祀してゐる。又薬草奏進社とも言はれてゐる。宝物殿昭和53年秋建立。有栖川宮熾仁親王御染筆外数点所藏しあり。建御名方命は武田氏の勢力旺盛なりし頃、上手村諏訪社より御分霊を奉祀した。

山梨県神社庁



郷社 穗見神社

祭神 建速素戔鴫尊 倉稲魂 建御名方神
創立年代詳ならず、社記に拠れば延喜式内社なる、穂見神社即是なりと、今地方史乗に就き之を按ずるに、亦頗る紛糾を極めたり、即ち左に之れを収録す、曰く、諏訪明神(穴山村)稻倉に鎮座す、御朱印社領七石六斗余、天正11年本社領五貫三百文の地を穴山郷内にて寄附せられんに、其年穴山勝千代の推挙にて四奉行黒印十貫文となり、慶長8年には黒印にして今の石高となれり、所祀三座中央健御名方、右は倉稲魂、左は素戔鳴尊なり、右殿の倉稲魂神は旧と地主神にして、倉稲明神又は穂見神社と称せり、本殿の諏訪明神は、天文中上手村の祠を勧請せる所にして、左殿素戔鳴尊は、社中に根の神石と唱ふる石あり、此れを神とし祀れり、本は三祀各別にして宝暦中合せ祭りぬとそ、倉稲明神は穴山氏の再興する所にて、年々修理すべき旨、天正9年梅雪不白(人名)の券書あり、天正壬午年新府御出陣の時禁制札を奉納す、又宝暦3年祠後の巌を劃つて小鉛蓋を得たり、俚面に弘安8年2月28日藤原氏敬白と識し、加賀美光章が記あり、又堂上地下の衆奉納の歌数百首を藏せり、其一二首を挙ぐれば、
大納言資矩卿
千々の秋つきぬ田の實を稲倉に穂見のみ神のみそなはすらん
大納言忠尹卿
此神の守るめくみに国富みて民も栄ゆるいなくらのさと
加茂季鷹
かくきくもあふがざらめや秋の田の八つかたりほのしるき神がき
又稲倉祠(穴山村)神領七石余祭神三座、延喜式に載せたる穂見神社なりとそ、此地を稻倉と称ふは、往昔屯倉のありし処なれば此名ありとなん、祠の西北の地に穴山山県、長坂、青本、諸士の宅蹟あり、本村の車坂より韮崎の穴明神へ隧道あり、其は分明に知られねども、大雨などに崖崩れし時に、坑口露はるゝ事ありと云へり、穴山の名蓋し此れに因るならんと甲斐国志に見え、延喜式内社としての確実なる証拠は無きも、古社たるの面影は蔽ふ可からざるに以たり、但し式内社としての穂見神社は数多ありて、未だ何れにも決定せられたるものあるを聞かず、宜しく研究す可きなり、なほ当神社々領の確証と見る可きもの實に左の如し、
「甲斐國穴山諏訪明神社領同所之内、七石六斗余事、並社中竹木諸役等免除、任天正11年4月18日慶安2年8月24日両先判之旨、永不可有相違者也、
寛文5年7月11日」
これ社記其他の称する所に符合して、古来当社の大社たりしことを見るべき好材料なり、明治6年郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿、庁屋、随神門等を有し、境内666坪(官有地第一種)檜杉の古木多く繁り、高雅幽邃の神地なり。
宝物 有栖川爆仁親王殿下御筆、古鎧器一個弘安8年2月28日の作、武田家寄進状、神像一体衣冠端座乗馬一体(古代物)等なり。

明治神社誌料



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