標高1037メートルの苗敷山(旭山)山頂に本宮が、苗敷山東麓に里宮が所在する。 県立北病院北、山裾に鎮座する。 聖武天皇の御代神亀元年(724)に延喜式内社穂見神社を建立した。 苗敷の当社を夏宮と云い、高尾の社を冬宮と云うとの伝承もある。 |
由緒 上古甲斐の国が洪水により湖水と化した時鳳凰山に住む大唐仙人が、蹴裂明神と力を併せ南山を決削して水を治め平野とし、里に住む山代王子がこの地を耕し、稲苗を敷き民に米作りの道を教えた。大唐仙人を国立大明神、山代王子を山代王子権現として両神を山頂に祀り苗敷山と呼んだ。聖武天皇の御代神亀元年(724)に延喜式内社穂見神社を建立して春秋稲束と初穂を供えて祭りを行なった。中世になり山岳信仰の仏教、修験道との習合が行なわれ、苗敷山権現と称した。天正10年の兵火と享保3年の火災により大部分は焼失したが、社殿は天文元年(1532)再建され今日に至っている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
穂見神社 神亀元年創立、中世仏に帰し苗敷山権現と号す。御朱印神領七石七斗余、山林東西三十六町余、南北二十六町余、山足に里宮の旧蹟あり。現時此処に本殿、拝殿、石鳥居等前宮として例祭時に祭儀を執行し神賑を極めつつあり。 山梨県神社庁 |
穂見神社 上古、甲斐の国が洪水により湖水と化した時、鳳凰山に住む六度仙人が、蹴裂明神と力を併せ南山を決削して水を治め平野とし、里に住む山代王子がこの地を耕し、稲苗を敷き民に米作りの道を教えた。大唐仙人を国立大明神、山代王子を山代王子権現として両神を山頂に祀り苗敷山と呼んだ。聖武天皇の御代神亀元年(724)に延喜式内社穂見神社を建立して春秋稲束と初穂を供えて祭りを行なった。中世になり山岳信仰の仏教、修験道との習合が行なわれ、古義真言宗法善寺(若草町)の末寺 宝生寺(苗敷山)が別当となり支配した。穂見神社の本殿と宝生寺の本堂は合体して虚空蔵堂を構え、本寺仏虚空蔵菩薩と国立大明神、山代王子権現を合祠し苗敷山権現と号した。 神社と寺の諸堂は山頂に正殿、拝殿、客殿、鐘楼堂、随神門、籠屋、等十九棟、麓に里宮、西郡古道に沿って建つ三ついの里坊、等八棟あり元々数多くの仏像を奉っていた。農事の神として、信者は県内は勿論、長野県下にも多く140に及ぶ講中があり、春秋二季の大祭は大いに賑い、御勅使川を越えて市をなしたと言われている。特に武田家の崇敬が篤く、信玄が武田八幡神社造営(天文10年)には、苗敷山住阿閣利栄真を小御檀那としている。また徳川家からも代々朱印領を受け、寺には僧侶20数名が常住していた。 権現諸堂は天正10年の兵火と享保3年の火災により、大部分は焼失したが社殿は天文元年(1736)大信都俊栄によって再建され今日に至っている。 宝生寺は明治維新の神仏分離により廃寺となり、仏殿諸堂は解体され多くの仏像は四散し、今は只は堂塔伽藍の礎石を見るのみである。 社頭掲示板 |