集落内の平地にある。参道は叢林の中にある。 |
熱那神社 祭神 足仲彦命 仲哀天皇 譽田別命 応神天皇 氣長足姫命 神功皇后 社格 旧郷社 鎮座地 山梨県北巨摩郡高根町村山西割1714番地 氏子数 497戸 昭和52年−西暦1977年現在 社歴 創立ノ年代ハ不詳デアルガ其ノ昔日本武尊ノ神徳ヲ尊崇シ地主神トシテ社ニ奉祀シ石剣ヲ奉安シ神体トシタ 古来神部神社又ハ熱那神総社ト称シ近傍九ヶ村ノ総称熱那ノ庄ノ総社ナルコトハ明白デアル 往古ハ安都那坂上ニ祀ラレテイタ 社記ニ依レバ康平6年2月新羅三郎義光ガ此ノ地ニ遷座シ武運守護ノ八幡大神ヲ合祀シ総鎮守トシテ崇仰シタ 仍ツテ甲斐源氏ノ尊崇深ク天文中ニハ神領百貫文ノ地ガアツタガ盗奪サレタトイウ 後武田氏代々出陣ニ際シ参拝ヲ欠カサナイバカリデナク永禄中武田信玄武運ヲ祈リ神領ヲ寄進シタ 武田家滅ンデ一時社運ハ傾イタガ徳川氏トナリ天正11年11月神領朱印状ヲ奉リ当時七石七斗 社地山林一万八千坪 神主屋敷二千五百坪ヲ有シタガ明治維新ノ際上地サレタ 社殿造営ハ黒源太清光以来武田家ニ於イテ度々修繕セラレタ由伝エラレルガ其ノ年月ハ詳カデハナイ 遠江守義定ガ再建シタノハ応永年中デアル 現社屋ハ延亨2年4月−西歴1744年下山村大工棟梁遠藤常右衛門豊房ノ建築ニ成ルコト明カデアル 明治初年郷社ニ列シ同42年神饌幣帛料神社ニ指定サレタ 社殿ハ本殿 拝殿 神楽殿 随神門等境内ハ老松今ナオ森々ト生イ茂リ神サビタル好社域デアル 撰文熱那神社宮司 並氏子総代一同 社頭石碑 |
熱那神社 所在地 高根町村山西割字宮地1714番地 所有者 熱那神社 高根町指定天然記念物第3号 熱那神社のサクラ 昭和56年8月27日指定 樹高 22.5m 根回り 5.5m 目通り 4.5m 枝張り 東西14.1m 南北20.7m 説明 日本を代表ずる春の花としてサクラがあります。一般にサクラといえば染井吉野(ソメイヨシノ)をさすほど有名ですが、日本全国で裁培及び自生しているサクラの種類は二百数十種類を数え、名前がつけられているのは、ほんのごく一部です。サクラは、種の同定及び固定が難しく、同じ木でも場所によって花や葉の状態が異なる場合もあり、変種ができやすい種であることから、サクラの品種改良が盛んに行われ一般的に認められ周辺に植えられるようになつたのは、江戸時代中頃からといわれ、現在も有用品種が改良されています。 当神社のサクラの品種名はエドヒガンザクラ又はウバヒガンサクラとも呼ばれ、希有な巨樹として貴重なものです。 高根町指定有形文化財第4号 熱那神社の本殿 規模 桁行一間(3.08m)、梁間二間(1.99m)の一間社流造 附棟札二枚 昭和62年4月14日指定 説明 熟那神社を含む近傍九村(村山北・東・西割、箕輪、箕輪新町、堤、小池、蔵原、五町田)を熱那の庄といい、その総社であったといわれています。今は村山三ケ村の総鎮守となつています。本殿は一間社流れで基壇まで漆喰で塗固め、亀腹を設け、井桁にくんだ栗材の土台上に建てられています。身舎は桁行一間、梁間二間て、柱はすべて円柱で、四面に縁長押、内法長押を巡らし、頭貫を入れ、先端に木鼻をつけています。斗供は二手先、実肘木で出桁をうけ、妻飾は虹梁に結綿つきの大瓶束を立てて化粧棟木をうけ、妻壁は笈形状に雲の彫刻で飾り、破風には鰭付のかぶら懸魚と桁隠を下げています。身舎の正面は一間ですが、桁行の中通りを三間にとつて内外の二陣に分け、前よりの一間を吹放ちとし、三間にはそれぞれ両開き板戸をつっています。両側・背の三面は板張りで、表面に、左側は雲に竜、右側は竹に虎、背面は亀と兎などと彩色された彫刻で全面的に装飾されています。四周には雲形彫刻付きの持送りに支えられた、擬宝珠高欄つきの樽縁を巡らし、脇障子はありません。軒は二軒繁垂、屋根は檜皮葺きで箱棟をつけています。向拝は一間で几帳面どり角柱に虹梁を架し、両端に木鼻をつけ、身舎と海老虹梁で繁ぎ、手狭を入れ、さらに通り肘木付の連三斗を組んで丸桁をうけ、虹梁との間に木蟇股をいれています。前面に浜床を張り、昇高樋付の木階五級を設ける。保存されている棟札によれば信州高嶋郡小和田村、大工棟梁小松七兵衛富■の施工により文政2巳卯年6月9日(1819)に上棟されている。近世の建築物をうかがう上て貴重なものです。 高根町指定有形民俗文化財第1号 熱那神社の算額 昭和62年4月14日指定 規模 縦49cm 横165cm 奥行5cm 材質 木製板・墨書き 説明 明治3年(1870)庚申歳8月14日に熱那神社神主植松正尚ほか、四名(いずれも近村の人}により奉納されたものてす。算額は、算術の向上を祈願して神社などに奉納するものて、和算の問題とその解き方、答えが書かれています。他県では多くの算額の存在が明らかにされていますが、北巨摩管内では今日までの所これが唯一のものです。奉納されたのは、明治ですが算術を学んだ過程は長いと思われ、江戸時代の算術の考えそのものが集大成され現在まて残されています。近世の教育及び数学史をうかがう上で貴重なものです。 高根町指定無形民俗文化財第3号 熱那神社の太々神楽 平成2年12月26日指定 説明 『太々神楽』と呼ばれていたものが、伝播の主流となつた神楽座で「大和神楽」と称したことから、各地にその呼び名が普及したものと思われます。古文書によれば、江戸時代の弘化2年(1845)に『太々御神楽講中』という文字があるところから「大和神楽」と呼ばれるようになつたのはそれ以後のことと思われます。太々神楽は「ただ神楽」と読むのが正しく「だだ」ということばは、現在でも「だだつ子」とか「だだをこねる」等と使われていますが、本来は神楽の一つの所作からきたもので、舞人が足で大地をドンドンと踏むことで、地下に潜む悪霊を追放し、そこに神霊を招くという意味を持ち、演舞の中にその所作が中心的な位置を占めているところから「太々神楽」の名があるといわれています。元神官の屋敷に、神楽衣装及び神楽面(全十八面)が伝えられており、ぞの中将面には『文化酉浅尾神社』の墨書があり、少なくとも文化10年(1813)にはすでに神楽の奉納が行なわれていたことが認められます。これらの神楽面は、最盛期の一部分と思われ、面から推察すると当時は多くの演目があつたようです。神楽の奉納日は、古くは毎年3月15日と8月15日、明治以後は4月17日と9月15日となり、現在は4月29日に行われています。演目は二十番を数え、順序は下記のとおりでてす。一番斎場清め、二番四方舞、三番四方の剣舞、四番四方のミテグラ舞、五番神の舞、六番国竪の舞、七番宇豆女の舞、八番二人剣の舞、九番掬い剣舞、十番金山彦の舞、十一番猿田彦の舞、十二番鯛釣の舞、十三番玉取の舞、十四番種蒔の舞、十五番四人剣の舞、十六番須佐之男の舞、十七番天手力男の舞、十八番四弓の舞、十九番餅投げの舞、二十番乙の舞となつています。近世の民俗芸能をうかがう上て貴重なものです。 高根町教育委員会 社頭掲示板 |
熱那神社 神部神社は又熱那惣社八幡社といふ。往昔熱那の庄九ヶ村、村山西割、村山東割、村山北割、小池、蔵原、箕輪、箕輪新町、堤、五町田の総社として崇敬者を有す。宇佐八幡大神を歓請康平6年2月(1063)の建立、永禄年中信玄百貫五百文神領朱印状を寄進、徳川家康天正11年11月神領朱印状、その後代々高四石九斗余を寄進。明治5年郷社、明治40年神饌幣帛供進社に指定された。 山梨県神社庁 |
郷社 熱那神社 祭神 応神天皇 仲哀天皇 神功皇后 創立年代詳ならすと雖も、速見郷熱那の古神社にして、御朱印社領四石九斗余、神部社又熱那神社と称す、傍近九村(村山三割、箕野、同新町、堤、小池、蔵原、五町田)を熱那庄と云ひ、其総社なりとそ、今は村山の総鎮守なり、康平6年3月逸見冠者義清建立す、天文中神領百貫文の地あり、券書は盗に奪はれ、今信州佐久郡香村の某寺に在りと云ふ、神主植松筑前守、社地山林二萬五千歩、熱那の庄と称ふるも此岡の名に依れるなり、(甲斐志同叢記)武田氏代々の崇敬は勿諭、後世徳川氏に至りても、天正11年11月3日を以て、神領朱印状を奉り、慶長8年には四奉行黒印状を奉りしが、同2年朱印状に改めらるる等の事あり、当時七石七斗、社地山林一寓八千坪余、神主屋敷二千五百坪を有したりしが、維新の際上地したり、造営年度の如きは、黒源太清光造営以来、武田家に於て度々修繕ありし由云ひ伝へたれど、其の年月詳かならず、遠江義定の再建したるは、応永中の事なりとそ、尚武家崇敬の一般を示せぱ、 武田晴信公制札 禁制 一初後夜之神楽怠慢之事 一落書並高声之事 一切吠笛尺八之事 一順礼並往来之輩宿拝殿之事 一宮中之掃除無渉汰之事 永禄3庚申年8月25日 印 又 禁制 一於社中殺生之事 一猥剪採山林竹木之事 一放牛馬之事 右条々堅令停止果若於違背族為曲事也 慶長8年卯3月朔日 桜井安芸守 印 石原四郎右衛門 印 前者は武田氏、後者は徳川氏、共に境内取り締の為めに設けたるものなる事明かたり。(社記) 社殿は本殿、拝殿、神楽殿楼門等を有し、境内1650坪(官有地第一種)あり、社邉老松森々として神さびたる社域なり。 明治神社誌料 |