神部神社
かんべじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】神部神社 甲斐国 巨麻郡鎮座

   【現社名】神部神社
   【住所】山梨県南アルプス市下宮地 563
       北緯35度36分9秒,東経138度27分58秒
   【祭神】大物主命
       『神名帳考証』「田口彦命」

   【例祭】4月12日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】創建年代は不詳
       垂仁天皇の御宇、大和國城上郡大三輪神社より勧請
       貞観5年(863)6月8日従五位上『三代実録』
       貞観8年(866)3月28日正五位下『三代実録』
       同18年(876)7月11日正五位上
       元慶4年(880)2月8日従四位下
       明治6年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「三輪明神」と称していた
   【社殿】本殿銅板葺流造
       拝殿

   【境内社】

南アルプス郵便局に南接して鎮座する。
垂神天皇の代に大和三輪神社を遷祀という。
この地は里宮とし「霜月より四月迄、山宮に鎮座、四月より霜月迄里宮に鎭座」という。
南アルプス市上宮地の八幡神社を山宮とし当社を里宮として祀ったか。


由緒

第十一代垂仁天皇の御宇大和国城上郡大三輪神社よりこの地方湖水なりし頃舟にて奉遷した(式内社)。往古から何かいか神階に叙せられ且つ神田若干の寄進あり。
保元平治の後も逸見武田、小笠原家等より厚く尊崇さる。祭典は数度の中で4月12日の御幸祭を大祭とし、山梨県の内西御幸祭という。往古は公祭として行なわれた。故に下付されるもの武器・兵丈・馬口までに及び祭典終了と同時に官へ飛脚を以てその旨を報告せりという。又旧2月2日に御遷座の由縁を以て中祭にて舟引祭を斎行している。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




町無形民俗文化財

神部神社の曳舟神事 平成6年6月28日指定
 神部神社は大物主命を祭神とし、第十一代垂仁天皇の御代に大和国大三輪神社から奉遷されたと伝えられており、「延喜式神名帳」に巨摩郡五座のなかのひとつとして記載されている。
 毎年3月2日(往古は2月2日)に行われる舟引祭は、大和国から奉遷された古事にならってその様子を再現しており、数本の矢をはなって、悪魔をはらい、諸々の贖罪、五穀豊饒、天下泰平を祈願する。神事のなかで木舟の舳先に綱をつけ神主、総代が引くというのは恐らく当時の運搬手段のひとつとして、木舟を用いて内陸まで出入していたことを演出しているものと思われ、当時の文化流入についての様子がうかがえる遺産である。
 古代における遷座の状況を神事としてこのようなかたちで残しているものは類例がなく大変貴重なものである。

社頭掲示板



町指定文化財

神部神社の算額 平成5年3月28日指定
 わが国古来の数学である和算は江戸時代に関孝和らを中心として独自に発達し、当時の文化新興の一助となった。
 和算家が自分の発明した問題や解法を書き、寺社に奉納する「算額」、つまり和算の絵馬は本県において存在が確認されているのは当社など数箇所にすぎない。
 この神部神社の算額は、文化3年(1806)に上州の和算家清水直次郎央七が奉納したもので、大正12年、火災によって焼失してしまったが、平成5年に古書にもとづいて奉納当時の姿に復元されたものである。
 算額は、和算の研究だけでなく往時三輪明神と呼ばれていた当社への人々の信仰と近隣諸国との文化や物資の交流などを知るうえでも貴重な史料である。

社頭掲示板



遷座地の由緒

御祭神大物主奇甕玉神と称し人皇11代垂仁天皇の御代大和国(奈良県桜井市三輪町)鎮座三輪明神大神神社(官幣大社日本最古の神社)より当時此の地方一体湖水なりし故に船にてこの地に御遷座さる処にして昔より3月2日舟引祭を行う所以なりこの神社は延喜式内社であり最も古く甲斐総社として国中の人々の信仰厚く境内一町余歩の御神領の他御朱印地16石2斗余を賜わり例大祭は4月中の卯の日(4月12日)に西部□祭として山宮より御神事ある有名な神社である。

社頭掲示板



神部神社

第十一代垂仁天皇の御宇大和国城上郡大三輪神社よりこの地方湖水なりし頃舟にて奉遷した(式内社)。往古から度々神階に叙せられ且つ神田若干の寄附あり。保元平治の後も逸見竹田、小笠原家等より厚く尊崇さる。祭典は数度の中で4月12日の御幸祭を大祭とし西御幸祭といふ。往古は公祭として行なはれた故に下附されるもの武器、兵杖、馬口にまで及び祭典終了と同時に官へ飛脚を以て其の旨を報告せりと云ふ。又旧2月2日今は3月2日に御遷座の由縁を以て中祭にて舟引祭を斎行してゐる。

山梨県神社庁



郷社 神部神社

祭神 大物主命
創建は垂仁天皇の御宇、大和国城上郡大三輸神社より分霊を遷し奉る所にして、往古屡神階を授けられ、且神田若干の寄附あり、延喜式神名帳に記せる巨摩郡神部神社是れ也、保元平治の後も、逸見武田小笠原氏等厚く本社を尊崇し、祭典年中数度あり、其四月に於て御幸祭あり、是を西御幸と称す、(社記)名勝志に「三輪明神(下宮地村)祭神大己貴命也、鎮座不詳、社領十六石余、又上宮地に離宮あり、毎年四月卯日神輿御幸あり、上宮地の社に大なる杉六囲斗、扇居の額に神山と有り、又此邊に大和川あり、按ずるに大神川の転語ならん、大神を大三輪と訓ずれば是れみわ川なるべし、大神山傳嗣院(曹洞宗上宮地村)後土御門院延徳2年開山寺領六石」と見え、又甲斐国志に「下宮地村に鎭座す、府を距る事三里許西南に在り、御朱印杜領十六石三斗余、社地三千二百六十九坪、除地屋敷六百四十八坪とあり、社記に2月2日船祭とて遷座の時の式あり、是は上世社前迄湖なりし時、船にて此地に渡り給ひし式と云ひ伝へたり、正殿、幣殿、拝殿、瑞垣、鹿垣、随神門、鳥居二基あり、大祀は正月15日筒粥神事あり、2月6日船祭賽珠窟の神事、4月始卯日(三卯用中)の遷幸当日より十三日前の卯の日を一ノ神事とし、官より武器兵杖を給はる、旗持六人、(旗二本)乗子二人、警固(四人羽織云々)長柄持十人(長柄十本)弓ノ者十人、(弓箙十把)鐵砲持十人(鉄砲十挺)箱持四人(挟箱四挺)台笠持二人 立笠持二人 刀筒持二人、鎗持四人 若党二十人草履取二人、乗馬二匹、 馬口附四人、右人馬郡中入用に仰付らる、又飯酒菜肴を給ふ、小笠原村御所庭にて神影献上の時云々」と記せり、又甲斐叢記に「卯の日の祭、大神事にて上宮地の山宮より当社へ移らせ給ふ、此神事を邦俗西御幸と云ふ、公祭にして國玉の神事の如し、御所庭にて神符献上終り、林の中にて饗膳の式あり、土人是を三軸の御涼と云ふ、11月卯の日(日取4月に同じ)亦一二三の神事あり、三の神事は其前の夜丑の刻に神主神体を捧げ、無燭無言にて復山宮へ遷しまゐらせ、翌の朝本社に帰り、神事了りて宮の前なる大庭に越席を敷き、饗膳の式あり、四月に同じ、土人是れを日向ぷくりと云ふ、中世より此山宮は伝嗣院と云へる滅罪の寺となりし故、不潔を避けて同村八幡宮に遷座あり、合殿にて来年四月迄此に鎮座の事になりぬ、御所庭は村西にて松樹蔚蒼たる四方四十間許の間地なり、小笠原長清の館の南庭にて、三輸明神の神輿の迎へ祭を爲せし処なり」と云ふ、神祇志料は「神部神社旧上宮地村大神山又(神山とも云う)にあり、後下宮地村に遷し之れを三輪大明神と云ふ、蓋し三輪大物主神を祀る」と云へり、而して三代實録に「清和天皇貞観5年6月己亥從五位下勲十一等美和神、授從五位上、同8年3月甲辰正五位下18年7月正五位上、陽成天皇元慶4年2月加從四位下」
と見えたれど、是の叙位は別に式外の神あるが如し、如何となれば祭神は同じくとも、当社の方ならば神部神に云々とあるべきならすや、さて当社に伝はる御朱印古文書等ば天正11年4月19日十一貫三百文の御朱印状、慶安2年10月17日十六石二斗余、並社中竹木諸役免除朱印状、代々朱印状都合八通、天正10年4月三條禁制、信長朱印状、同17年11月23日俵数書出し、伊奈熊臓黒印花押、同19年9月24日加藤平兵衛尉諸役免許の黒印状、同年12月15日神領並神主屋敷寄附光泰黒印状、文緑3年2月5日神領寄附淺野右近大夫黒印状、又永禄10年7月5日神木禁制書は上宮地神主所藏なり、慶長13年3月28日櫻井安芸守秋山甚右街門小田切大隅守の禁制書は平岡村神主蔵めたり、当社は府中八幡宮神主先組代々奉仕したりしと、弘治の頃、今澤岩見と云ふ者八幡宮神主職に転任して、府中に移りしより、当社を兼帯所とし、宅地に神代と云ふ者を据ゑ置きて、守護し奉らせしと云ふ、又三輪神山宮の地を神山と称せり、最初勤請の時より冬は山宮に遷座し、夏は里宮に遷座する事旧例なり、然るに神主の先祖今澤貞重と云ふ者、年老いて家職を右近三郎に譲り、落髪して普念道観と改名し、明応元壬子年此処に草庵を営居し、其後文亀元辛酉年叔父坊主第翁居一に譲與せり、居一は小林村南明寺八世天徳の一ノ弟子なりしに、永正7庚午年天徳寂して、後に他の僧輩と寺職相続に就き争論ありて、居一遂に出山し、吾宝の一派州安宗彰の嫡孫在先祖鑑を師として、神山に住せしめ、大神山伝嗣院と號し、大に禅林を開き、道観を開基とし、組鑑を開山とし、居一二世に住せり、右近三郎も、亦父の志を継ぎ発心して、切林道徳と改名し、三輪の神田若干を寄附し、爾來神地変じて佛場となれり」と甲斐國志に見ゆ、明治4年社領を上地し、同6年郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿を有し、境内3137坪〔官布地第一種)あり。

明治神社誌料



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