山梨市駅の南東にある30mほどの石森山に鎮座している。 境内のいたるところに巨石がある。 創祀年代は不明であるが日本武尊が東夷征伐の折に勧請したといい、一説に景行天皇41年(111年)日本武尊の創祀であるという。 |
山梨岡神社本殿 山梨県指定有形文化財 昭和35年11月7日指定 山梨岡神社は社記によれば創祀年代は未詳だが、神護景雲2年(768)造営以来しばしば再興されたといわれる。 祭神は熊野大権現(伊弉諾尊・事解男命・速玉男命)及び国建大明神(国常立尊・大国主命・少彦名命)を併せ祀る。 本殿は二座相殿の二間社流造り、銅板葺き、身舎は円柱、斗供は拳鼻付き出組みで、正面幣軸板扉、擬宝珠高欄付き縁、側面後端に脇障子がある。 妻飾りは懸魚・板蟇股など見るべきものが多い、向拝は一間で、面取り角柱を海老虹梁でつなぐ。この建物は細部の手法が装飾的で、桃山期以降の技法がよく認められる江戸初期の優れた遺構である。 尚、昭和36年の解体修理の際、元禄16年(1703)に修理したことを示す墨書が大斗裏から発見された。 平成7年3月設 山梨県教育委員会 山梨市教育委員会 社頭掲示板 |
山梨岡神社 創建年代は不詳ですが、社殿建築が発生する以前から「磐座」(下記参照)とよばれる古い石信仰の場として崇拝され、石森岡神社とも呼ばれました。 本殿には熊野大権現と国建大明神が2座相殿としてまつられています。 江戸時代初期には徳川家によって社領が安堵され、幕臣で当地付近を領した石谷氏と蒔田氏によって社殿が造営されています。 「甲斐国志」『甲斐叢記』など多くの書物によって紹介され、主だった大石・巨岩には名が付けられているところからも、石の山が平地に突出した景観が存在感をもって人々に崇拝されていたことがわかります。 県指定有形文化財 山梨岡神社本殿(やまなしおかじんじゃほんでん)昭和35年11月7日指定 社記によると、社殿の造営は神護景雲2年(768)、文治3年(1187)、文明6年(1474)、永禄6年(1563)・天和2年(1682)としていますが、造営を担った領主と地域との関係が確認できるのは、天和2年の石谷長門守・蒔田八郎左衛門のみです。 本殿は、その時代の建築的特徴をもちますが、昭和36年の解体修理の際に大斗裏に元禄16年(1703)の墨書が発見され、それが建立年代を示すものと考えられています。2座相殿の二間社流造で、蟇股や水引虹梁に優れた彫刻が施されており、元禄期の建築意匠を知る上で貴重な遺構です。 市指定天然記念物 石森山のハリモミ 平成14年5月1日指定 ハリモミは、日本固有の常緑針葉高木であり、大きなものは樹高30m、直径1mにもなります。 北は福島県から南は九州の一部にまでみられ、マツ科トウヒ属中最も暖かい所まで分布しています。石森山のハリモミは自生種と考えられ、今日では主に山地に分布しているものが、平地に隔離されて残っており、この付近の植生を考える上で貫重です。目通り1.70mm、樹高約23m。 社頭掲示板 |
山梨岡碑 山梨県治于甲斐萬山中治東三里曰加納厳邨小岡掘起?畝中延喜式称之山梨岡蓋県名所由也伝云日本武尊東征駐師于此明治二年穿輿遷東京越十三年巡本県県令□岡図証古蹟云二十年秋邨人清水市右衛門導余登岡奇石怪厳□?森□不知幾千百老松乱立其間亭亭□□皆刺天有泉県焉有池□焉中腹有古廟祀国常立伊弉冊両尊右側有一扁石武尊曽踞此云上有小祠祀尊登至絶嶺眼界渓然沃野数十里重川栄東南笛吹川燎西北□□層嶺環合其外而富岳巍然卓立正南景致絶佳又有要害武尊駐師良有以也嗚呼事之成心有啓之前者明治之東遷得非武尊東征啓之千歳之前乎乃岡図之入乙覧 聖感果何如也項市右衛門與同志謀建碑表之乞余銘銘曰 維石厳厳 維松累累 驟雨丘陵 確乎根祇 皇化東漸 此其先□ 明治二十二年春王一月 大審院検事従五位 三島毅撰 従五位 長英書 宮内大臣従二位勲一等子爵 土方久元 篆額 社頭石碑 |
山梨岡神社 日本武尊東夷征伐の折勧請したと云ふ。社殿の東に尊の御腰掛石があり、其の頂の天神社には尊が祀られてゐる。往事は毎年弓祭があった。神護景雲2年、坂上苅田丸神殿造営後武将等の造営が度々あった。 山梨県神社庁 |
山梨岡神社 山梨市下石森1 創建年代は不詳ですが、社殿建築が発生する以前から「磐座」とよばれる古い石信仰の場として崇拝され、石森岡神杜とも呼ばれました。 本殿には熊野大権現と国建大明神が2座相殿としてまつられています。 江戸時代初期には徳川家によって社領が安堵され、幕臣で当地付近を領した石谷氏と蒔田氏によって社殿が造営されています。 「甲斐国志」「甲斐叢記」など多くの署物によって紹介され、主だった大石・巨岩には名が付けられているところからも、石の山が平地に突出した景観が存在感をもって人々に崇拝されていたことがわかります。 磐座 神霊が石に宿るという信仰に基づいて、石を御神体として祀ったことに由来する、祀られる石は。巨石や陰陽石など石の大木さや他とは違った特徴がみられるものがその対象となった。神社の社殿建築発生の前段階には、この石に神が降り下るとされて祭りが行われた。 やがて神が鎮座するところという観念が固定し、石は神聖視され「磐座」と呼ばれるようになったのである、「古事記」「日本書紀」また「風土記」にその名称が散見され、古代の信仰のひとつとなっている。 県指定有形文化財 山梨岡神社本殿 昭和35年11月7日指定 社記によると。社伝の造営は神護景雲2年(768)、文治3年(1187)、文明6年(1474)、永禄6年(1563)天和2年(1682)としていますが、造営を担った領主と地域との関係が確認できるのは、天和2年の石谷長門守・蒔田八郎左衛門のみです。 本殿は、その時代の建築的特徴をもちますが、昭和36年の解体修理の際に天井裏に元禄16年(1703)の墨書が発見され、それが建立年代を示すものと考えられています。2社相殿の二間社流造で、蟇股や水引紅梁に優れた彫刻が施されており、元禄期の建築意匠を知る上で貴重な遺構です。 社頭掲示板 |
郷社 山梨岡神社 祭神 伊弊冉尊 國常立尊 事解男命 大國主命 速玉男命 少彦名命 創立は景行天皇の41年日本武尊云々と社記にあれど、徴証なし、「上下石森両村の産土神にして、国建明神を配祀す、」(甲斐国祀)貞観元年甲斐守紀貞守幣を奉る、又神護景雲2年叛上苅田麿、降つて文治3年加賀美遠光、修営の事ありと傅ふ、(社記〉徳川氏の時朱印社領二石五斗余(在下石森)黒印社領三石七斗四升、(在上石森)を有し、石森丘上に鎮座す、此丘屹然として平田萬頃の中より立ち、遥に衆峯と隔りて、廻廻数萬歩高数十丈、奇岩怪石、累々として森列す、此に至れば殆ど深山幽谷の趣あり、石各、其形を以て名づく、頗る奇観なり、里人の口碑に存する歌あり。 「天津日のひかりもそひて玉かしは動かね神の国ぞひさしき」読人しらず 「足曳の山路へだてゝあしひきの山なすこれの石森のをか」季鷹(甲斐国志 同叢記) 此の丘を甲斐風土記に、山梨岡と云ひて、社記には当社を式内社に擬すれども、諸説皆鎮目村なるを採れば今従はず。 社殿は本殿、拝殿を有し、境内2262坪(官有地第一種)にして、頗る大社なり、明治の初年社領を上地し、次いで5年郷社に列す。 明治神社誌料 |