松尾神社
まつおじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】松尾神社 甲斐国 山梨郡鎮座

   【現社名】松尾神社
   【住所】山梨県甲州市塩山小屋敷 2256
       北緯35度43分47秒,東経138度43分4秒
   【祭神】大山咋命 天照皇大神 大己貴命 (配祀)誉田別命 足仲彦命 気長足姫命
   【例祭】10月1日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】景行天皇41年6月創祀
       康平7年(1064)八幡神が合祀
       元亀3年(1572)7月所領寄進
       明治5年郷社

   【関係氏族】
   【鎮座地】当初藤木組の地に創祀
        康平7年(1064)現在の地に

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「六所大神」「松尾六所明神」と称していた
   【社殿】本殿明神造
       拝殿・渡殿・社務所・御輿庫

   【境内社】弁天社・吉備明神・新羅明神・太歳神・子安明神
        巻之明神・東照宮・業平社・蚕神社・天神社


恵林寺東、松里中学西に隣接して鎮座する。
景行天皇41年6月に松尾県直巻之が現地の東方4町藤木組に創祀。康平7年(1064)石清水八幡より新羅三郎により八幡神が合祀されて現地へ移転。


延喜式内松尾神社

当神社は社記によると遠く景行天皇42年山城国松尾大社より勧請し現在地の東方4丁余りの地に創祀したと伝えられ、以来松尾郷の鎮守として信仰された、その後貞観元年11月社殿の造営が行われ、延喜式神名帳山梨郡の条に松尾神社と見える式社である。創建当初の祭神は天照皇太神、大山咋命、大己貴命の三神られ、康平7年8月甲斐源氏の始祖新羅三郎義光が八幡神、足仲彦命、息長足姫命、誉田別命の三座を岩清水八幡宮より勧請し現在地に社殿を遷した。爾来六所神の宮と云われた。永禄六年恵林寺検地帳に六所宮九年に一度の「大ツクニの祭」とあり、往古の大祭を推察されるが現在絶えて伝わらない。元亀3年武田氏の一族於曽左京亮信女が祭礼田として六貫五百文を寄進同12年6月している。慶長2年社殿を造営し□□たって明治6年郷社に列したが同8年2月社殿が焼失した。
同12年6月再建される。明治9年9月現社号に改称された。境内には末社12社をかぞえ、ほかに縁塚、御□□と云われる日本武尊の伝説や借生松等の話が伝わっている。また社中には二階堂近江守進の金仏が安置されていたが廃仏毀釈の為破壊された。本殿裏に中世期築かれた土塁跡の遺構がある。
戦国時代松尾神は武田信虎の□男で外祖松尾信賢の遺領を継いで当郷に住んだ。松尾民部少輔信是の所領であったが信是の没後弟□□兵庫助信実が受け継ぎ居館を現在の松里小学校の地に構えたので小屋□の地名となったと伝わる。茲に天皇陛下在位60年を祈念して建碑する。

社頭石碑



松尾神社

往古、松尾の郷置かる時郷の鎮守たり。社記に曰く、「六所明神といひ式社たり。景行天皇41年鎮座、社頭に日本武尊の褥塚と云ふあり、塚上の櫻樹を褥櫻と呼ぶ。歌あり読人知らず、『幾万代々に変らで花も咲け君が褥のあとのさくら木』」現在松里中学校々庭東南隅なり。昭和51年2月現在社頭に再興す。昭和57年拝殿屋根瓦葺を改め銅板葺きに改修する。

山梨県神社庁



松尾神社

松尾は末都乃乎と訓べし〇祭神大山咋神、若山咋神、若年神、大己貴命、素淺鳴尊、蛭児尊、(名勝志)○松尾郷小屋敷村に在す、今六所明神と称す、(同上)例祭月日、
類社
山城國葛野郡松尾神社の條見合すべし
社領
当代御朱印高十三石余

神社覈録



郷社 松尾神社

祭神 大山咋命 足仲彦尊 大己貴命
   氣長足姫命 天照皇大神 誉田別尊
創建は景行天皇41年6月13日なり、(社記)延喜式神名帳に山梨郡松尾神社(名神小)とある是れなり、松尾縣直巻之自ら齋主となりて祀る、日本武尊東征の時、酒折宮より上武へ通するの途、此に過り休息し給ひ、巻之と歌合あり、其旧跡今社中に存し、褥塚と云ふ、文徳天皇2年4月小野直樹に命じて奉幣、清和天皇貞観元年11月社宇再建、醍醐天皇延喜中式社に列し、大嘗会大解除祈止乞雨等の奉幣数々あり、康平7年8月新羅三郎義光今の地へ遷し、並に山城國男山より八幡大神を勧請す、祭神六座、乃ち六所明神の称あり云々と社記にあり、松尾縣直巻之は日本武尊の歌に和したること諸書皆其名を伝へす、当社に之れを伝ふるは奇なりと云ふ可し、或は疑ふ酒折の故事を誤り傅へたるものなるか、小野直樹も亦然り、然れども小野氏は文徳實録、類聚三代格等の書に「小野貞村或作貞樹)為甲斐守」など見えたれば、是を誤り傅へたるにやあらん、当社の式内社たる事は神祇宝典に「山城國松尾社同体大山咋神也、」旧神祠記に「山梨郡小屋鋪村」神祇志料に「今山梨郡松尾郷小屋鋪村に在り、松尾六所明神と云ふ、蓋大山咋命を祀る云々、」覈録亦同説にて些の疑を要せす、甲斐國志に「六所明神(小屋鋪)御朱印社領十三石三斗余、並社地若干鳥居場除地一畝歩、松尾明神、神明宮八幡宮等を配祀す、社記に相伝へて松尾神社なりと云ふ、社域に末社多し、社邊に日本武尊の褥塚と云ふあり、塚上の櫻樹を褥櫻と呼ぷ、歌あり読人しらす「幾よろつ代々にかはらぬ花も咲け君がしとねのあとの櫻木、」又社傳七奇の中に借生檜と云ふは、六所明神出現の時地主松尾神に七地一尺を借り、檜の苗を植うること際限なし、松尾神問うて曰く、借地一尺を借す、何ぞ樹を植うること如斯なるかと、六所神答へて曰く、先に請ふ所は土中の深さを云ふのみと、今合抱檜樹の如き根紙地中に入ること僅かに二尺余と云ふ、又社中に二階堂出羽入道道温か寄附の金仏あり、長一丈六尺、側に四奉行禁■を掲げたり、又元録3年壬申7月於会左京亮信安定燈定香免並七八両日の祭礼、田六貫五百文、所諸役共に寄附の証状、其他古物古器等枚挙に遑あらす、恵林寺の所蔵永禄6年の検地帳に、六所宮九年に一度の大ックエ祭と云ふあり、当昔の大祭と覚しけれど、更に伝はらず、又九社明神六社明神の当社地にして、礎石今に顯然たり、熊野権現神殿の後の杉樹囲三丈余、相伝へて日本武尊の御箸杉と云ふ、亦七奇の一なり(甲斐国志)甲斐叢記に、「牧庄松尾祠松尾郷の名も、此神社より出でたるなり、社中に褥塚といふ塚存す」又同書郷名部に「松尾、天文永禄以来の文書に、村名を斥て妄りに郷とする事一時の風なり」社領に就ては、日本寺社領記に「十三石、神主云々」、又旧神詞記にも「御朱印十三石云々」と見えたり、尚社記に拠るに武田家世々崇敬厚く、延慶3年花園天皇松尾神社の扁額一面を賜り、応長元年11月鎌倉將軍守邦親王総社六所宮の扁額一面寄附、慶長2年3月社宇修営、同8年3月朔徳川氏より黒印状を以て社領寄附、家光朱印状に改めらる、明治3年社領を上地し、同6年郷社に列す、同8年2月11日回禄の災あり、同9年社号松尾に復称し、同12年6月19日社殿再建工を竣ふ。
社殿は本殿、拝殿。渡殿、随神門等なり、境内2702坪(官有地第一種)を有す、風致頗る佳なり。

明治神社志料



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