開化朝に甲斐国造塩見足尼が、先祖の地丹後国天橋立より勧請した氏神で、初名を橋立明神といつたと云う。 また「はじめの祭神は陰陽二神」という。 |
由緒 当神社は「甲斐国志」「甲斐名勝志」などによると、丹後の国(京都北部)与謝郡にある日本三景の一、天の橋立より勧請されて橋立明神とも言われ、黒印社領二石八斗六升、社地六百八十八坪、祭神は陰陽二神、即ち伊奘諾尊・伊奘冊尊で他に地主神・天照大神を配祀し、延喜式所載の金桜神社なりとされているが、山梨県神社明細帳によると現在は他に大己貴命・少彦名命二神が配祀されている。 一説に景行天皇の御代、狭穂彦王三世孫臣知津彦公の御子塩見定尼が甲斐国の国造に任ぜられ、京の丹波氏族である塩見定尼が、本国天の橋立より橋立明神を勧請し斎祀されたと伝えられている。 金桜神社については西村の旧社地に桜の古樹があり、毎年秋になると花をつけて秋桜と呼ばれ、五行説のうち秋は金に配され、金は秋の借り字として金桜神社と称されたと言われている。 また慶応4年、時の神主竹内淡路より甲府寺社御役所に提出された神社調書社記によると、鎮座について、初め丹後の国天の橋立より五反地に勧請、次に貞観4午(862)年金桜地将に移し次に天正11年末(1583)年今の社地に移し候とあり、更に付近の地名にも五反田・御供田・古屋敷・地将金桜・神喰田・碓鍋太(田)鍵田・蔵米・大神原・並木並桧木田・坊主田京塚・桜田・十日田・洗井・西屋敷・源町など神社に関わるものが多く、夫々、地名の由縁が記されているのを見ると、往古より相当の神社であったことが伺い知られる。社殿についても、天正10年織田勢の乱入による兵火に罹り再建されてより元和2(1616)年の再興、元禄年中拝殿の改築、正徳年間石鳥居建立、更に寛政2(1790)年より5年に亘る本殿の改築は、京の番匠一先斉某の考案による戸板、欄干、など彫刻の斬新さと、八ツ棟の結構は実に華麗を極めたとの記録を残している。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
金櫻神社 往昔は村西の地に橋立明神と称へられて居たが、天文19年に炎焼後、今の地に金櫻神社と改称し今日に至るといふ。元和3年中、社殿再興元禄年中拝殿を改造、正徳年間石鳥居建立、寛政2年より5年に亘り本殿を造替へられたと云ふ。昭和58年に子供神輿奉納される。 山梨県神社庁 |
金櫻神社 金櫻は加奈佐久良と訓べし〇祭神在所等詳ならず 甲斐名勝志云、歌田村橋立明神、祭神伊弉諾尊、伊弉册尊也、相傳延喜式所載金櫻神社也、 此辺に金櫻田と云地名あり、此地往昔の神社の跡也、御供田、別当免田、並木、大神原など云田地の字あり、又此東の方に小祠あり、天文の頃今の社地に遷し祀ると云伝ふ、」又云、巨摩郡御嶽権現、祭神三座少彦名命、大己貴命、素戔鳴尊也、金性大明神は日本武尊也、(参考亦同)相傳延喜式所載金櫻神社是也、山林凡七里許、社家数多あり、後陽成院御宇文禄年中、淺野侯造営あり、又櫻大門とて古木の櫻数株あり、又云、山梨郡金峰山絶頂に祠あり、藏王権現を祭る、御嶽社の本宮也といふ、 神社覈録 |