穴切大神社
あなぎりだいじんじゃ 所在地 社名

















   【延喜式神名帳】黒戸奈神社 甲斐国 山梨郡鎮座

   【現社名】穴切大神社
   【住所】山梨県甲府市宝2-8-5
       北緯35度39分47秒、東経138度33分41秒
   【祭神】大己貴命 少彦名命 素盞嗚尊
   【例祭】4月19日近い日曜日 春季大祭 10月8日9日 秋季大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】和銅年中創祀
       明治5年郷社
       本殿は昭和10年5月13日国宝に指定

   【関係氏族】
   【鎮座地】移転の記録はない

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「黒戸奈神社」と称していた
   【公式HP】 穴切大神社
   【社殿】本殿流造 檜皮葺
       拝殿・神楽殿・社務所

   【境内社】

当初は黒戸奈神社と称したが、後に朝廷から「穴切大明神」の神号を賜った。
太古の昔に湖であった甲府盆地が山を切り崩して水を落とす事で陸地化されたという甲斐国湖水伝説・蹴裂伝説があり、『社記』によれば和銅年間(8世紀始)に当時の甲斐国司が湖を平地化する事を発起し、朝廷に奏上するとともに国造りの神である大国主神(大己貴命)に祈願した上で盆地南部の鰍沢口(富士川町)を開削し、富士川へ水を落として盆地一帯を水田化するという大事業を行い、工事の竣工に際して神助を蒙った大己貴命を勧請したのが創祀であるという。


由緒

人皇43代元明天皇和銅年中、当甲斐国未だ湖水なりしが、時の国司国内を巡見して、湖水の跡良田ならんと考へ、朝に奏聞の上、大己貴命に祈願こめて土を起し、多くの人夫を督し鰍沢口を切り開き、水を南海に注がれたるに湖水退きて大半良田となり、民以て食につき、貢物は三倍にも増した。これ人力の克くする処にあらず、御神助によるものなり、と勅命を以て此処に勧請し、崇号を穴切大明神と賜はり、国中鎮護の神と仰ぎ奉る。これにより此の地を治むるもの皆厚く祭祀を執り行ふ。 これによって、此の附近を穴切たんぼと称え、此一帯地名の総称となる。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年




穴切大神社

人皇第42代元明天皇和銅年中当国未だ湖水なりしが時の国司朝に奏聞の上大己貴命に祈願して人夫を督し鰍沢口を切開きて水を南海に注ぎたるに湖水退きて良田となり民栄え公への貢物は三倍にも増せり。これ人力のよくする処に非ず実に御神助によるものなりと讃仰し神祠を此所に建て崇号を朝に奏請して穴切大明神を賜り国中鎮護の神となす。これよりこの地を治むるもの皆厚く祭祀を執り行ふ。
御本殿は一間社流造桧皮葺桃山時代の様式昭和10年5月13日国宝に指定
昭和25年8月25日重要文化財指定
甲府市教育委員会
穴切神社

社頭掲示板



穴切大神社

市指定文化財
穴切大神社随神門(付棟札三枚)
所在 甲府市宝2丁目8−5
所有者 穴切大神社
指定年月日 平成13年3月30日
三間一戸、二層の楼門である。獅子鼻や象鼻、牡丹・若葉などの動植物彫刻などが美しい。特に虹梁下端の錫杖彫り、二層の支輪の下にある波に貝の彫刻が、諏訪立川流の建築であることを窺わせる。
寛政6年(1794)、棟梁下山大工竹下源蔵が建立し、諏訪立川流初代和四郎富棟が彫り物を担当したことが棟札から判る。
大胆な平面および構造構成は、彫刻とともに極めて秀逸なものであり、江戸時代後期の楼門建築として価値が高い。
諏訪立川流は、江戸時代後期に楼閣建築を装飾する、宮彫りの流派として隆盛を極めた。特に第二代和四郎富昌は、彫刻の美しさ、精巧さに芸術的才能を発揮し、各地の建築にかかわった。
平成15年3月
甲府市教育委員会

社頭掲示板



穴切大神社

国指定文化財・建造物
穴切大神社本殿
所在地  甲府市宝2丁日8-5 
所有者  穴切大神社
指定年月日 昭和10年5月13日
当本殿は、建築の仕方が、一間社流造という形式でつくられた年代は、桃山時代とされている。側面かろみると、屋根が棟を中心に、前後に水の流れるような線をもっているので、「流造」といわれる。
正面には美しい金具をつけた両開き戸がありその前と両側面には欄干つきの板縁がめぐらされている。各所に桃山時代の彩色と特徴を持つ彫刻が配されていて、市の数少ない貴重な文化財である。
昭和60年10月
山梨県教育委員会
甲府市教育委員会

社頭掲示板



穴切大神社

第四十三代元明天皇の御代、和銅年間の創建と伝へられる。その頃の甲斐の国中は大半湖水にて、時の国司巡見して湖水が引かば跡地は良き田にならうと、朝廷に奏聞して裁可を得、その上国造神に座します。大己貴命に祈願をこめて、多くの人夫を発して土を起し、鰍沢口を切り開き、富士川より南海に水を落すに成功した。為に湖水の大半が退き今日の如き良田数多を見るに至った。これ偏に御神助の賜と勅命を以て勧請、穴切大明神と奉称、国中鎮護の神と崇敬されるやうになった。又甲府城築城後は甲府城坤方の御門・穴切御門と云はれ人々にも知られ、明治六年郷社となる。一間社流造桧皮葺の御本殿は桃山時代の建築として国宝となり、戦後改めて国の重要文化財と指定された。更に桃山時代建築の随神門にも江戸時代と云ふ美事な彫刻が飾られてあり(甲府市の有形文化財)、正徳五年といふ拝殿は新府の藤武神社に寄進されて今はないが、古社にふさはしい数々の歴史を秘めてゐる。

山梨県神社庁



穴切大神社

由 緒
 当社は、和銅年間(708~715年)に当時の甲斐国司が湖を平地化することを発起し、朝廷に奏上するとともに国造りの神である大己貴命(大国主命)に祈願した上で、盆地南部の鰍沢口(富士川町)を開削し富士川へ水を落として盆地一帯を水田化するという大事業を行い、工事の竣工に際して神助を蒙った大己貴命を勧請したのが創始と社記に伝えられている。当初は黒戸奈神社と称したが、後に朝廷より穴切大明神の神号を賜った。以来、1300年以上の長きにわたり御神徳顕たかな神社として崇敬を集め、江戸時代には甲府城の御門があり穴切御門と呼ばれ、裏鬼門の鎮守として甲府勤番士たちからの崇敬を集めた由緒ある古社である。
 最近は、縁切りのパワースポットとして人気を集めている。
湖水伝説(甲州弁での解説)
 うーんと昔、甲府盆地はでっけえ湖だっただと。ある日その湖を眺めながらお地蔵さんは「この湖の水をとっぱらったらいっぺーいい土地が出来るらにな。ほうすりゃあ皆も喜ぶらになぁ」と考えとうだと。そしてほの考えを二人んの神さんに言っただと。 ほしたら、二人んの神さんも「ほりゃあいい考えどう、すぐやらざあ」と言って一人の神さんはイキナリ山を蹴っ飛ばしただと。ほうしたら、もうひとりの神さんも山にでっけえ穴を切り開けただと、ほうしたら水は抜け出し始めたけんど思ったように水が抜けんかった。 ほの様子を見てたお不動さんが「俺も何か助けてやらざあ」ちゅうて水がうまく流れるように瀬を造っただと。ほうしたら、今度はどんどん水が富士川へ流れ出してみるみる湖底が現れただと。ほの湖底を皆で開墾して豊かな田畑を作っとうだと。
みんなはうんと有難がってこの二神二仏をお祀りしただと。
 山に穴を切り開けた神さんは、甲府の西に穴切大明神としてお祀りし、山を蹴り崩した神さんを蹴裂(けさき)明神として甲府の南の中道町にお祀りしとうだと。ほして、これを考えついたお地蔵さんは、国母地蔵として甲府の東にある東光寺のそばにお祀りしてあるだと。最後に川瀬を作ったお不動さんは甲府の南東にある境川町のフジンタ(地名:藤垈)というところに瀬立不動 として祀られているっちゅうこんだよ。
 今の甲府があるのもこの二神二仏のお蔭っちゅうこんさ。ありがてえこんじゃん。
おしまい

公式HP



郷社 穴切大神

祭神 大己貴命 天照皇大神
創立年代詳ならざれども、当社は青沼村に鎮座し、古社たる事明なり、巨摩郡青沼郷、訓安乎奴萬(和名抄)山梨郡青沼郷昔は巨摩郡に属く」(甲斐叢記)と見ゆ、本杜は即ち此の古邑に在りて又頗る古伝を有す、実に左に述ぶるが如し、社領五石七斗余、旧と村上天皇の御代大湖なりし頃、(或は云ふ元明天皇御宇)國司此神に祈誓して人夫を徴発し、鰍澤の下を穿り開き湖水を決して、遂に良田を得るに至る、故に穴切明神と尊称せしとそ、穴切の名神社より起りて、今此辺田圃民戸の総称となれる由甲斐叢記甲斐名勝志等に見ゆ、鰍澤より下を河合とも河落とも云ふ、後世河内と呼ぷは蓋し転語なり、其後国司を蹴裂明神と崇め祀ると云ふ、又或旧記に山を切るを穴切明神と云ひ、岩を破るを蹴裂明神と云ひ、水を導くを瀬立不動と云ふ、皆世上治水の功ありし人を祀りて神仏と崇めしと云ふと甲斐圓志に見ゆ、其説亦捨て難ければ此に附紀す、「創建は実に数百年の昔時に在り、爾後再三修営、明暦2年の棟札を存す、亦國内の古社たり(甲斐名勝地誌)明治6年郷社に列し、後本村無格社神明社を合祀す。
社殿は本殿、拝殿、随神門等にして、墳内392坪(官有地第一種)あり、風光秀麗、社中観月観雪に宜しく来賽者顛る多し、さて亦当社を式内黒戸奈の社に擬せるも明徽なければ從ひ難し。

明治神社誌料



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