日本武尊東国平定ののち、当国鎮護のため創立と伝。大宝2(702)勅により黒尸奈神社と称す。 「黒戸奈」の記載は「黒尸奈(クロシナ)」の誤字で、倉科(クラシナ)鎮座の当社のことだとする。 |
由緒 大字倉科の総鎮守社で祭神は素盞鳴命である。大宝2年勅願により創建と云う、別名唐土大明神、本殿は一間社流れ造り身舎は円柱高欄付の縁向繋虹梁箱棟に寄進を示す徳川の紋章と祈願所を示す武田花菱を付す。 永禄7年馬場美濃守寄進と伝える神鏡を存す。4月12日奉納の太々神楽は民族文化財。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
黒戸奈神社(倉科) 大字倉科の総鎮守社で、素盞鳴尊を祭神とす。神社の創立は明らかではないが、大宝2年(702)勅願により創建と云う。国家安泰、五穀豊饒、万民幸福の祈願所とされ、甲斐国志に「唐土大明神」とあり御朱印神領二石八斗なり。 本殿は一間社流れ造り桧皮葺にて、身舎は円柱、正面に両開き板唐戸、三方板壁にて高欄付の縁をめぐらす。向拝は面取角柱にて繋虹梁は用いない。屋根は箱棟にて正面に三つ両側に各一徳川の紋章を付け徳川氏の神領寄進を示す。裏側に武田花菱二つを付す。 境内には諏訪、蚕神、愛宕、白山、稲荷、厳島、玉寄、庖瘡、子安、道祖神、天神の各社を併祀する。 武田氏のころは戦勝祈願所とされ、永禄7年(1564)7月馬場美濃守信春寄進と伝える御神鏡を存す。 「鼓川波の白ゆう打ちかけて、音も名に立つ黒戸奈の宮」の古歌あり。例祭は毎年4月12日でこの神社で奉納される太々神楽は町指定の民俗文化財なり。 平成16年12月 牧丘町教育委員会 社頭掲示板 |
太々神楽 太々神楽(昭和51年町指定無形文化財) この神社に伝わる太々神楽は元禄年間(1688〜1703)の創始とされており、二四座の神楽は氏子の神楽講によって伝承されている。戦後の世、一説には信玄の先勝出陣神楽ともいわれる。神楽は、古事記にのっとり、天の岩戸にまつわるもので、古典的優雅なもので、万民の平和を祈り五穀豊穣を祈願する芸能にして伝統を守り厳粛に伝承す。 神楽の奉納は古くは毎年2月20日を例祭と定めていたが、明治44年4月12日を例祭とすることになった。 社頭掲示板 |
黒戸奈神社 景行天皇の御宇創立。文武天皇大宝2年勅を奉じて黒戸奈神社とする。それよりこの地方を黒戸奈村と称へた。中古社号黒尸奈の尸に一点を加へ延喜式神名帳に黒戸那神社と記載され後に黒戸奈神社と称するに至る。延喜年間祈年新嘗の班幣を受け式内社に列せられる。康平6年源頼義の心願により宮殿の造営あり。その後新羅三郎義光以来鎮護神として崇敬を受け慶長8年3月1日徳川家康より国家祈念社中造営として朱印神領二石八斗八升を寄進せらる。 山梨県神社庁 |
黒戸奈神社 黒戸奈は久侶登那と読り○祭神在所等詳ならず 甲斐名勝志云、倉科村唐土明神、祭神素戔鳴尊也、(参考亦同)相傳延喜式所載黒戸奈神社は、黒尸奈の尸を誤て戸と書たるにて、黒尸奈神社也とぞ、一説に、御嶽の奥黒平と云所に、黒戸(クロベ)明神と唱ふる社あり、黒平を今黒ベラと云、ベラはベナの訛るにて、黒戸奈の神社なりと云、何れか是なる事をしらず、後の考を待のみ、 神社覈録 |
郷社 黒戸奈神社 祭神 素戔鳴尊 社記に云ふ当神社は延喜式神名帳山梨郡九座並小とある中の一社なりといふ、景行天皇御宇皇子日本武尊東夷平定の後、当国鎮護萬民幸福を祈る爲め、素戔鳴尊の神璽を出雲國より奉迎し奉り、唐土明神と称へ奉る、尊曾て新羅に渡りまして種々神業ありければ、唐土明神とは称し奉つるとそ、文武天皇の頃勅を奉じて社號を黒戸奈神社とし、村をも黒戸奈村と云ひしを、聖武天皇天平年間甲斐國司史廣足米蔵置の為め、当村宇屋舗と云ふ地へ倉庫を築きしが、賊徒の爲めに其蔵米を奪はれたる事あり、怠慢の罪に因りて、村長始め十数人嚴科に処せられたり、其倉庫の為めに重科に処せられたる故を以て、其時より黒を倉とし、尸奈を科に変じて、倉科村と改称せしならん、且社號黒尸奈の尸の字は、如何なる誤にや頭に一点を加へ、延喜式には遂に黒戸奈神社と記載せられたるなりと、社記及社寺明鑑等に見えたり、又一説に景行天皇41年皇子日本武尊東夷を平定し、御帰途当國を経て、碓日嶺に至り給ふ御道筋に、宇小櫓嶽「此地方第一の高山)の峯に幕岩と稻する大厳あり、尊此岩に登り、東睡を眺望せられし時、東陸鎮撫守護の神として、素戔鳴尊を祀らん事を思ひ出でさせられ、予て御出陣の時尊体に添へさせられたる御守を、此岩の上に鎮められたり、後世里民石の祠を造りて奉祭せるなりと云ふ、今の倉科の地に遷座せらたれる年代は詳ならず、今此幕岩を奥宮と称せり。 因みに云ふ、此幕岩と称するは、小楢嶽の最も高き処に直立し、高さ十数丈幅十数丈、上は平にして表は幕を張りたる様に見ゆ、又是より東地に凡三十町を距て的石と云ふあり、共高さ凡三丈余、直して彼幕岩に向ひ相へり、此的石の表面に、日本武尊、幕岩より御慰の為め射させ給ふ、矢尻の跡なりとて、些さき穴四五個あり、此二岩を日本武尊の御旧跡と称せり。 延喜年間、式内に列せしより、大嘗會の度々籾を献上し、勅使参向のことあり、御代々々帝都より社殿御造営有り、後冷泉御宇康平6年源頼義心願に依りて造営し、新羅三郎義光の末裔武田氏累代の鎮守と崇め、晴信は倉料の内にて二十五貫文の朱印を付し、徳川氏よりも米二石八斗四升の朱印を給せられたり、明治初年社領悉皆上地し、爾后遁減禄下賜せられ、同6年郷杜に列す、口碑に伝はる歌あり、 鼓河なみのしらゆふうちかけて音も名にたつ黒戸奈のみや 永禄の番帳に大澤とあるは此社なるか、或は云ふ、成澤村唐土明神鎮座の地を大澤と称す、未だ何れか是なるを知らず」と甲斐国志に見ゆ、又「相伝ふ、延喜式内黒戸奈神社は無尸奈の尸を誤りて戸を書きたるにて、黒尸奈神社なりとぞ、一説に御嶽の奥黒平と云ふ所に黒戸明神あり、黒平を今はくろべらと云ふ、べらはべなの横なまれるにて、黒戸奈の神社なりと云ふ、何れか是なるを知らず云々」と甲斐名勝志に見え、神祇志料には黒戸奈を黒べなと訓みて、神社は当社を採れり、其説に云はく「此村(倉科)谷間の里にて、此より奥西保など云ふ里に分け入る谷の方なるを以て、「くろべなとは云ふなる可し」と、此意今少し解しかたけれど、若しは暗く戸なっしてふ心にて、暗戸奈と云ふにやと思ひ寄せられしか、さては地勢の實況など見調べて、かの黒平の社よりは当社のかた見優りたるよりなるべし、黒戸奈の説はすてながら、当社を採れるは、如何なる故なるか、又或書に「黒戸奈神社御嶽の奥黒平と云ふ所に、黒戸明神ありと云ふ説あれども、信じかだし、黒平村は元巨摩郡に属したれば、本郡に入る可からず、倉科村は谷間の里にて、奥に西保など云ふ村里ありて、此へ分け入る谷の戸なれば、黒戸奈は谷戸の義にて、奈は乃の助辞に同じければ、黒戸奈神社は即この倉科村なるべし」とあり、「兎に角に此両社甚しくまぎらはし、記して後考を挨つべきなり、さて又当社は「山梨郡倉科村神主広瀬隼人祭神素戔鳴尊御朱印二石八斗」(巡礼旧神祠記)など見えて、式の内外は暫く措くも、古き御社とは聞ゆるなり、文禄年間産子に於て造営を負担し、慶安年中再建の事あり、 社殿は本殿、拝殿、渡殿、神楽殿を有し、境内2877坪(官有地第一種)なり、 社藏古器物は 一、黒木花表一暮、額面に黒戸奈神社とあり、吉田二位兼連卿の染筆一、金幣三本、但し物質銀作者詳ならず、一、御鏡三面、但物質銀作者同上、一、人体木橡一体、是は武田信玄の作にして、裏に永禄7甲子年7月22日大願成就馬場某奉之と記載あり、即末社諏訪大神の神体なりと云ひ伝ふ。 徳川家康より拝領の品、 一、鑓一筋 一、太刀一腰、但正宗の作、一、短刀一ヒ、(三日月ト云フ) 右は関ケ原戦陣の時神主今澤右近御供致し拝領せしものなり、 明治神社誌料 |