甲斐奈神社
かいなじんじゃ 所在地 社名















   【延喜式神名帳】甲斐奈神社 甲斐国 山梨郡鎮座
          (旧地)甲斐奈神社(旧地)

   【現社名】甲斐奈神社
   【住所】山梨県甲府市中央 3-7-11
       北緯35度39分41秒,東経138度34分41秒
   【祭神】菊理姫命 木花咲耶姫命
   【例祭】4月15日 例大祭
   【社格】旧郷社
   【由緒】第二代綏靖天皇の御代創建
       永正年間(1504〜1520)現地へ遷
       慶応4年(1868)現在の「甲斐奈神社」を称
       明治9郷社
       昭和20年戦災に依り社殿焼失

   【関係氏族】
   【鎮座地】元は甲斐奈山(現・愛宕山)の頂きに鎮座
        永正16年(1519)蔵田に遷座
        天文年間(1532年-1555年)現在地に遷座

   【祭祀対象】
   【祭祀】江戸時代は「淺間明神」「白山権現」「白山神社」と称していた
   【公式HP】 甲斐奈神社
   【社殿】社本殿神明造
       拝殿・社務所

   【境内社】甲斐奈稲荷神社・三神社・祖霊社

第二代綏靖天皇の御代、甲斐国開拓に際し甲斐奈山(現・愛宕山)の頂きに白山大神を祀ることに始まるという。
永正16年(1519)武田信虎が躑躅崎の館を構えるにあたり、甲斐奈山頂より藏田村へ遷す。
その後天文年間(1532年-1555年)に長禅寺が現在地に移るとともにその境内に移されたとされる。


由緒

当社は、人皇第二代綏靖天皇の御代、甲斐国開拓に際し甲斐奈山(現・愛宕山)の頂きに白山大神を祀ることに始まり、以来、延喜式神名帳に載る如く甲斐国鎮守の神として尊崇された。永正年間(1504〜1520)、武田信虎の築城に際し、現社地に遷座され文録年間(1592〜1595)甲府城起工の際、東部守護神として浅間大神が併祀され、社運愈々隆盛となった。
明治9郷社に列せられ、昭和2年境内拡張事業に依り現在の規模に到る。昭和20年、戦災に依り社殿悉く焼失すれど復興事業めざましく、戦後二十数年にして旧に復す。白山大神の「理」浅間大神の「和」のご神徳は人生諸般に亘り広く崇敬を受けている。

全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年



甲斐奈神社

人皇第二代綏靖天皇の御代、皇子土本毘古王、甲斐国疏水工事を行ひ、開拓の御業なせし時、中央の山上甲斐奈山に、白山大神を祀る事に始まり、以来延喜式神名帳に載る如く甲斐国鎮守の神として尊崇された。永正年間、武田信虎の築城に際し、現地に遷座され、文禄年間、甲府城起工に際し東部守護神として、浅間大神が併祀され、社運愈々隆盛となった。享保12年12月、火災により焼失したが、直ちに復興。
明治9年、郷社に列せられ、昭和2年、境内拡張事業に依り現在の規模に至る。皇室との縁深く、皇族ご懐妊の折には、安産祈願のご神札を献上せしと伝へられる。大正年間、時の宮司神前結婚式を一般諸人に広め、現今の風の嚆矢となる。昭和20年戦災に依り社殿悉く焼失するも復興事業めざましく、戦後十数年にして旧に倍する復興を見る。更に昭和63年石垣大改修、平成18年本殿拝殿改築、同23年社務所改築にて現在に到る。白山大神の「理」浅間大神の「和」のご神徳は人生諸般に亘り、広く崇敬を受けてゐる。

山梨県神社庁



由緒

当社は、人皇第二代綏靖天皇の御代、甲斐国開拓に際し甲斐奈山(現・愛宕山)の頂きに白山大神を祀ることに始まり、以来、延喜式神名帳に載る如く甲斐国鎮守の神として尊崇された。
永正年間(1504〜1520)、武田信虎公の築城に際し、現社地に遷座され文禄年間(1592〜1595)甲府城起工の際、東部守護神として浅間大神が併祀され、社運愈々隆盛となった。
明治9年郷社に列せられ、昭和2年境内拡張事業に依り現在の規模に到る。昭和20年戦災に依り社殿悉く焼失すれど復興事業めざましく、戦後二十数年にして旧に復す。平成18年には遷座五百年を記念した平成社殿ご造営事業が成就し、氏子崇敬者の浄財を以て社殿が新造された。
白山大神の「理」、浅間大神の「和」のこ神徳は人生諸般に亘り広く崇敬を受けている。



甲斐奈神社

甲斐奈は、假字也○祭神在所等詳ならず
甲斐名勝志云、府中淺間明神、相殿白山権現を祭れり、相傳延喜式所載甲斐名神也と、予按るに、甲斐奈神社と唱來る社、いくところにもあれば、何れ是なる事をしらず、』又云、國府に守宮と云社あり、一説「延喜式所載甲斐名神社也と云傳、今未詳、』又云、八代郡橋立村神祖明神社中に大なる杉樹あり、七囲半許、實に希代の杉也、加賀美先生曰、延喜式所載甲斐名神社是なるべし、此辺和名鈔所戴山梨郡林戸郷也、今八代郡に属す、○日下部某
が参考には、國府村にありと云り、未何れかしらず、

神社覈録



郷社 甲斐奈神社

祭神 句々理比売命 木花咲耶姫命
創建年代詳ならず、延喜式に名神小甲斐奈神社とあるは即ち是なり、上世は甲斐奈山(今長禅寺山と云ふ)の頂上に鎮座ありしが、此地要害の地たるに依りて、永正中武田信虎藏田村に奉遷し「古地には小古祠を置けり云々と國志、社記等に見ゆ、「按奈輿根通峯也。今在甲斐峯」と神名帳考証に見え「又其後天文の末晴信巨摩郡鮎澤村長禅寺を以て彼の山の南麓に移すに当り、本社も亦其境内に転ず」(國志社記)故に「甲斐奈神社旧甲斐嶺に在り、後之れを西郡筋鮎澤村長禅寺山の南麓に遷し白山権現と云ふ、凡三月初午の日幣を当社に奉り、其月の望日本社の祭を行ふ」(神祇志料)と云へり、其後淺野弾正長改甲府城を築き、復其三の曲輪内に奉遷す、此時東青沼村なる淺間神社を合祀す、相殿の神即ち是なり、徳川氏の時朱印社領三石余(蔵田村の内)を寄進せらる、古は神輿にて山上の古地に御幸ありしが、九十年来は奉幣のみにて、僅に旧観を存す、大神事は3月11日の望日なり、往古は午の上刻、藏田村の古地にも御幸ありしに、今は絶えてなし、さて相殿の淺間明碑は、青沼郷に鎮座の古社にして、昔時神領三石三斗を有せり、或は貞観7年八代郡の明神と共に祭られ給ひし神なりとも云へど、是は達へり、然れども其の大社たりし事は明かなりとす、当社に配祀されしは、文禄中府城起工の際にして、白山権現と並べ立てたり、享保12年炎焼以來南殿造立し難きに付、相殿造りにせし由、神宝旧記等傳はらず、今只神主圓書喜肉が祖先土屋次郎右衝門所賜天正10年壬午3月10日勝頼の朱印定書一通存せり、代々の朱印状六通四、奉行黒印状と併せ藏めたり、(辻記甲斐国志)明治4年社領を上地し,6年郷社に列す。
社殿は本殿、拝殿を有し、填内335坪8合5夕(官有地第一種)にして、幽清なる神地なり。

明治神社誌料



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