市役所春日居分庁舎の東に鎮座する。 賀茂・春日両社の合社であり、古くは二社が並び建っていた。 永正14年(1517)笛吹川が氾濫した大洪水により社殿、社地流出して、再建後は両社を一棟の社殿に造営した。 |
由緒 由来 当社は延喜式神明帳に記載された神社であって、賀茂・春日両社の合社であり、古くは二社が並び建っていた。賀茂社は欽明天皇の御代(540)に、春日社は文武天皇(698)に祭祀された。 古来より多くの崇敬者あり、特に武神として国守、武将の信仰が厚かった。 康平年中(1061)に八幡太郎義家東夷征伐の折、武運を祈願して御幣を奉納された。また、義家の弟である源義綱は当社殿にて元服して賀茂次郎と改名した。 永正14年(1517)武田信虎の時、子酉川(今の笛吹川)が氾濫した大洪水により社殿、社地流出して、再建後は両社を一棟の社殿に造営した。その後天正10年(1582)中牧合戦の折兵火にあい社殿消失する。天正11年(1583)徳川家康入国の際、貫文及御朱印を奉る。 現在の本殿は元禄14年(1701)甲斐国城代三枝摂津守が建立したものであり、拝殿は文久2年(1863)田安殿代官磯部寛五郎の指図により立て替えられた。旧社地は実に3632坪であった。 祭神は玉依姫命、別雷命、神武天皇、天児屋根命、経津主命、武甕槌命の六神である。 武田晴信(信玄)奉納の和歌 君を祈る賀茂の社のゆう襷かけて幾世か我もつかえん 初秋の頃賀茂御社の水に身をしたしてよめる たちかえりまたも汲みみん涼しさは賀茂の宮居のみたらしの水 永鷹 賀茂大明神の御社に詣ではべりて 引きはへし賀茂の宮居のみしめ縄すぐなる道を神ぞ守らむ 永憾 千早振る賀茂の社の姫小松幾千代までも栄えぬるさむ 読み人知らず 某がしとか云える花下の好士奉寄詞に都の北おほみ 社より此くぬちにうつし奉る賀茂御神の御前にぬかつきて ゆう涼み日枝より不二ぞ甲斐の賀茂 読み人知らず 昭和47年4月建立 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
加茂春日神社の由来 鎮座地 春日居町大字加茂字榎町319番地 当社は延喜式神名帳に載る神部神社で、甲斐二十社の一つに数えられる古社である。御祭神は別雷皇大神を初め六神で欽明天皇の御代に建立された。昔は賀茂社と春日社が並んで建っていたものが永正14年(1517)の大洪水で流失した後、一社にして再建した。又天正10年(1582)の戦で焼失したが、翌年4月徳川家康公から三貫五百文余の御朱印を賜り復旧することが出来た。慶長年間に加増されて御朱印三十石五斗余となる。現在の本殿は、元録14年(1701)三枝摂津守の建立で三間社流造の代表的本格建築で、拝殿は田安代官、磯部寛五郎の指揮で建替えた。康平年間に八幡太郎義家が東北へ出陣の折、武運を祈願して弊帛を奉納した。 例大祭は10月15五日に行なわれる。 又、武田信玄公奉納の歌が伝わつている。 君を祈る賀茂の社のゆう襷 かけて幾代か我もつかえん 春日居町 春日居町観光協会 社頭掲示板 |
笛吹市指定文化財 賀茂春日神社本殿 平成11年6月7日指定 賀茂春日神社本殿は元禄14年(1701)に再建された。正面三間、側面二間の三間社流造で、屋根は建築当初は檜皮葺であったが、昭和9年(1934)に銅板に葺替えられた。 広い境内に建つこの本殿は三間社流造の本格的建築で規模も大きく、良く整っている。 山梨県内に数少ない三間社流造の建築として貴重な遺構である。 平成12年5月 笛吹市教育委員会 社頭掲示板 |
神部神社 神部は加牟倍と読り○祭神在所等詳ならず○当國巨摩郡神部神社あり 甲斐名勝志云、加茂村加茂明神、祭神別雷神也、相殿春日明神を祀れり、云々、延喜式所載神部神社なり、又云、萩原郷神戸村岩間明神、祭神九座、云々、相伝延喜式所載神部神社也、神戸今ガウトと唱ふ、前に云加茂神社も神部の説あれば、何れか是なる事を考分ちがたし、』甲斐叢記云、神部山は玉井郷にあり、都留郡の界なりといへり、 類社 駿河國安倍郡神部神社の條見合すべし 神社覈録 |
郷社 賀茂春日神社 祭神 天津彦火邇々藝命 神日本磐彦余命 天児屋根命 創建は欽明天皇の御宇に在り、往古は両社並び立ちしに、後柏原天皇天正14年洪水の節両社共に流失してより、相殿として合併せり、天正壬午の乱に社殿兵火に罹り、神宝古文書等焼失す、翌年4月19日徳川氏より社領三貫五百三十文の朱印を附せられ、稍旧規に復することを得たり、其後増加して慶長中には三十石五斗五升となる、後冷泉天皇康平年中義家東征の時当社に奉幣の事ありと云ひ傳ふ、(社記)又府中一蓮寺所藏貞治3年の寺領目録に、矢作郷内賀茂経田五段増田逸寄進、文和4年10月8日(北朝)と見え、又晴信奉納の和歌とて伝ふるあり、其の歌、 君を祈る賀茂のやしろのゆふたすきかけていく代か我もつかへん とあり、(甲斐国志)又社領に付ては巡旧神祠記には朱印三十五石と記し、日本寺社領員数記には三十石と云へり、何れに従ふも大差なく、その大社なりし事想見すべし、(さて本社を式内神部神社に充てたるは、旧神祠記のみにして、他は皆疑を存せり、即ち神社覈録に「神部神社祭神在所詳ならずと云ひて、甲斐名勝志を引き、当社と萩原郷神戸村岩戸明神と何れか是なるを知らずと云ひ、更に甲斐叢記に神都山は玉井の郷に在り、都留郡の境なりと云へりと云ひて、終りに駿河国安部郡神部神社の項を見合すべしと云はれたり、さて駿河なるは祭神天照大神とも大己貴命とも両説あるが如し、而して当社現今の祭神は、前記の如くなれば、誠に其是非を定め難きなり、然れども本社の古社たる事は疑なけれぱ、暫く其疑しきを欠く可きのみ、尚甲斐國志の伝ふる処に擦れば、元禄14年三技摂津守の造営ありたりと云ふ。 現在の社殿は、本殿、拝殿、渡殿等にして、境内坪数1631坪(官有地第一種)を有し、社頭の風色順る齢雅なり、明治4年社領を上地し同6年郷社に列す、 明治神社誌料 |