往古宮腰の海岸佐良嶽の麓に湊があった。之を大野湊と云い、当社は湊の守護神であった。鎮座の場所は「大野郷海辺佐良嶽竿林」であった。その後波涛の爲に佐良嶽が崩れて海中へ没倒し、湊も埋滅してしまった。 |
由緒 大野湊神社の由緒 当社の起源は、聖武天皇神亀4年(727)猿田彦大神を、既に鎮座されていた神明社(祭神・天照大神)の傍に勧請したのが始まりといわれている。 この神明社の創設は不詳であるが、あらたに猿田彦大神を天照大神と合祀されてより、この社を大野郷(旧宮腰・現金石町)の湊の守護神として、大野湊神社と称されるようになった。 後深草天皇建長4年(1252)社殿炎上により、東八丁をへだてた離宮八幡宮(現在地)に奉遷され今日に至る。 歴代朝廷、武将の尊崇篤く、特に加賀藩主前田利家公は任国の際、本陣となった当社の荒廃を憂い、宮腰をはじめ十五ケ村にその総社として祭資を供進させて社殿を再興。 二代前田利長公は毎年の神事能興行の例をつくり、また三代前田利常公は、寛永16年(1639)社殿を造営し、氏子村を増加させるなど、歴代藩主の崇敬きわめて篤く加賀藩五社の筆頭の位置にあった。 明治18年県社に、昭和41年神社本庁別表神社に指定された。 寺中の森として有名な社叢は、昭和52年金沢市文化財に、寛永16年に造営された本殿三棟は、昭和57年石川県文化財に指定されている。 毎年8月1日より三日間執り行われる大祭は、525年間大野郷に鎮座されていた当時を偲び、海岸の仮殿に神輿を奉遷して行なわれるもので、金石の夏祭りとして有名である。 なお、慶長9年に創始された神事能は、現在も金沢能楽会関係者により5月15日に奉納されている。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年 |
大野湊神社 御鎮座地 金沢市寺中町ハの163番地 御祭神 本殿 護国八幡大神 相殿 鎮魂八神 天照坐皇大御神 相殿 瀬織津姫神 猿田彦大神 末社 春日社 武甕槌神 経津主神 天児屋根神 比咋大神 西宮社 事代主神 白山社 白山比盗_ 少彦名神 天満宮 荒魂社 荒魂大巳貴神 縁起 皇朝百代通略に「猿田彦神は聖武天皇神亀4年6月15日(727)陸奥人佐那、獲神於海中而祠之大野庄真砂山竿林、明年以聞帝勅日佐那武大明神」とあり、「佐那夢覚めて驚き急ぎて船を湊に寄せ、陸に上りて見ればうっそうたる深林真砂山に在りて之を竿の林と唱ふ中に鏘々たる神鈴を聴く、就て視れば一の瑞離ありて神明宮を鎮斎す。佐那乃ち其の祠宮に議り新に其傍に一祠を建立し猿田彦大神を勧請したり」此の神明宮即ち天照坐皇大御神を奉斎した社は、大野湊神社の創始の御祭神であり、創立の年代は不詳であるが、おそらく飛鳥朝以前と思われる。 この猿田彦大神を合祀してより霊験日に新に遂に天平元年(729》には、天に達し「佐那武大明神」の称号を賜り延喜式内の名社である。然かるに後深天皇建長4年(1252)社殿炎上のため東八町の離宮八幡宮境内に遷座され現在に至っでいる。 歴代朝廷の尊信厚く度々社殿の造営神宝の御奉納、勅使参向もあり、又武将国司もしばしば神器社領を寄進して国内の大社としてその御神威は高く仰がれていたが、永享年中に一向一揆の乱により社殿の荒廃が甚しかったが天正14年(1586)加賀藩主前田利家公、任国の際先ず社殿を再興し、社領を寄進し宮腰を始め大野荘十五ケ村の総社として祭粢を供進させ、慶長9年(1604)二代藩主利長公、戦勝報賽として毎年社頭に於て神事能の例を作り、又寛永16年(1639)三代藩主利常公社殿を造営し、神苑を整備し更に氏子村を増加する等、歴代藩主の尊崇篤く社殿神器に至るまで修築寄進の例となり、常に寺社奉行の役人を巡視させられた当国に於ける黒印領の社であり、加賀藩五社の筆頭たる位置にあり、明治維新後は明治5年郷社、同18年県社に昇格、同34年1200年祭を執行、昭和10年大阪商工会議所会頭安宅弥吉氏、拝殿の奉納を始め神域整備を行って面目を一新し、同25年1250年祭を斎行した。同41年7月、神社本庁別表神社に加列。 又昭和52年11月本殿三棟と社叢は金沢市文化財に指定され、同57年1月本殿三棟は石川県文化財に、社叢は同年3月金沢市文化財に再指定され、前記の神事能は、昭和60年5月1日金沢市民俗無形文化財に指定された。 由緒書 |
大野湊神社 大野湊神社の由緒 大野湊神社 大野湊神社は、神亀4年(727)陸奥の人、佐那(さな)が航海中に猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)の出現を感じ、海辺の大野庄真砂山竿林(おおのしょうまさごやまさおのはやし)に存していた神明社の傍らに一祠を建立し勧請したことをその創祀としている延喜式内社(えんぎしきないしゃ)です。 この神明社、即ち天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)を奉斎した社の創立年代は不詳ですが、おそらく飛鳥朝時代であると考えられています。 この猿田彦大神を合祀してより、天平元年(729)には天に達し「佐那武大明神」(さなたけだいみょうじん)の称号を賜りました。 しかし建長4年(1252)社殿が炎上したため、離宮八幡宮(現在の社地)に遷座されました。 歴代朝廷の崇敬篤く度々の造営神宝の御奉納、勅使参向もあり、武将国司の神器社領の寄進がありましたが、一向一揆の乱により社殿の荒廃甚だしかったとされています。 天正14年(1586)加賀藩主前田利家公が任国の際、社殿を再興し、社領を寄進されました。 以降加賀藩主前田家の崇敬篤く、大野庄(現在の金沢駅西地区)の総社として社殿、神器の修築や寄進を受けております。 明治5年郷社、同18年県社に昇格、同34年壱千弐百年祭が斎行されました。昭和25年壱千弐百五拾年祭、同41年神社本庁別表神社に加列されました。 平成12年には壱千参百年祭を斎行し、現在でも海と湊の安全を守護し、交通安全、厄除け等に御神徳の高い大神様として篤い信仰を集めています。 延喜式内社: 『延喜式』は延喜5年(905)醍醐天皇の命により編纂された三大格式(律令の施行細則)のひとつ。 なかでも巻9、10は『延喜式神名帳』とよばれ、この神名帳に記載さえた神社を「延喜式に記載された神社」、いわゆる「延喜式内社」「式内社」と呼びます。 加賀国には式内社42社の記載があり、大野湊神社は加賀国加賀郡の頁に記載されている。 前田家と大野湊神社 初代加賀藩主である前田利家をはじめ、歴代藩主の当社に対する崇敬は大変に篤く、社殿再興、領地寄進などを受けております。 初代・前田利家 前田利家は天正11年(1583)に加賀に入りますが、宮腰(現在の金沢市金石)から上陸し、当社で本陣を整えて尾山城(金沢城)へ出発したと伝えられています。 その後、一向一揆の乱により荒廃した当社を憂い、社殿を再興、社領を寄進していただきました。 二代・前田利長 二代藩主前田利長は慶長9年(1604年)関が原の合戦勝利を報賽するため、それまで猿楽として庶民に親しまれていたものを、諸橋太夫を召し神事能として毎年奉納するようお定めになりました。 当初は加賀藩による運営が行われてきましたが、段々と地域住民が運営を行うようになりました。 武士ではなく、庶民に親しまれる能として栄え、混雑をさけるために席割りも行われたようです。 この能は現在にも継承され、毎年5月15日に境内能舞台で神事能として演能されており、金沢市無形民俗文化財に指定されています。 詳しくは『神事能』をご覧ください。 三代・前田利常 三代藩主前田利常は寛永16年(1639年)に本殿三棟を造営されました。その証として本殿屋根瓦には前田家の家紋・梅鉢紋が施されています。 現在本殿三棟は石川県指定文化財(建造物)に指定されています。 公式HP |
大野湊神社 当社の起源は、聖武天皇神亀4年(727)猿田彦大神を、既に鎮座されていた神明社(祭神・天照大神)の傍に勧請したのが始まりといわれている。この神明社の創設は不詳であるが、あらたに猿田彦大神を天照大神と合祀されてより、この社を大野郷(旧宮腰・現金石町)の湊の守護神として、大野湊神社と称されるようになった。後深草天皇建長4年(1252)社殿炎上により、東八丁をへだてた離宮八幡宮(現在地)に奉遷され今日に至る。歴代朝廷、武将の尊崇篤く、特に加賀藩主前田利家公は任国の際、本陣となった当社の荒廃を憂い、宮腰をはじめ十五ケ村にその総社として祭資を供進させて社殿を再興。二代前田利長公は毎年の神事能興行の例をつくり、また三代前田利常公は、寛永16年(1639)社殿を造営し、氏子村を増加させるなど、歴代藩主の崇敬きわめて篤く加賀藩五社の筆頭の位置にあった。明治18年県社に、昭和41年神社本庁別表神社に指定された。寺中の森として有名な社叢は、昭和52年金沢市文化財に、寛永16年に造営された本殿三棟は、昭和57年石川県文化財に指定されている。毎年8月1日より3日間執り行われる大祭は、525年間大野郷に鎮座されていた当時を偲び、海岸の仮殿に神輿を奉遷して行なわれるもので、金石の夏祭りとして有名である。なお、慶長9年に創始された神事能は、現在も金沢能楽会関係者により5月15日に奉納されている。 石川県神社庁 |